コミュニケーション 多様性
2024/10/8
「CODA(コーダ)」とは「Children of Deaf Adults」の頭文字を取った言葉で、耳が聞こえない、あるいは聞こえにくい親のもとで育った、聞こえる子どもを意味する。調査では国内のコーダの人数はおよそ2万2000人と推計されている。
聞こえるとはいえ、コーダには特有の困難がある。本書『「コーダ」のぼくが見る世界』では、後天的に聴力を失った父親と、先天性のろう者である母親を持つ著者が、一般的には見えにくいコーダの葛藤や社会的な課題を自身の経験を基につづっている。
著者の五十嵐大氏は、1983年生まれのエッセイスト、小説家。『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)を原作とする映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が、2024年9月から公開中だ。
聞こえない両親の「通訳」を担う
コーダが背負う大きな役目の一つが、聞こえない親への「通訳」。著者も小学生の時から電話や来客の応対、役所や病院への付き添いをしてきたという。ただ、耳代わりになることは、親に無理強いされたのではないと著者は強調する。両親がふたりだけで例えば家電量販店に行くと言っても、店員の前で戸惑っている姿がつい浮かんでしまい、「来なくていい」と言われても同行した。
だが、大人の話を理解できず、手話や身ぶり、筆談などを駆使してもうまく通訳できないことも多い。「親御さん、聞こえないんだもんね。困ったなあ」という相手の何気ない言葉が胸に刺さり、自分のふがいなさに泣いたこともあったと語る。
こうしたコーダの体験は、日常的に家族の世話や介護を担う「ヤングケアラー」に重なるが、著者は自分にとって通訳は当たり前のことで「かわいそう」と思われるのは違和感があるようだ。親の力になりたいのは子どもらしい自然な感情だ。そうした思いと、うまくいかないやるせなさとの葛藤に、コーダは人生の早い段階で向き合う。
聴者であっても「母語」は手話
コーダの葛藤は多面的だ。例えば、著者は親を守りたいと思う一方で「自分もろう者ならよかった」と思ったことがあるという。家庭では(口の動きを読んだり、まねて会話したりする)口話を優先していたが、両親は口話法を学んでいるとはいえ完全には理解できない。親子でありながら共通言語がなく、コミュニケーションがうまくいかないことに悩んだ。そうしたコーダは少なくないようだ。
著者は自分の母語が手話だとも述べる。大人になって手話の学習を始め、講師の手話を見た時、幼き日に見た両親の手話を思い出し胸がいっぱいになった。手話を習うことは「かつて身近だった言語を取り戻す」ことと表現している。誰しもそうだが、言葉はアイデンティティーに関わる問題だ。母語とは違う言語で暮らすことを考えると、著者の葛藤の一端が想像できる。
コーダの繊細な視点は、マイノリティーを一元的に捉えず、それぞれの事情を理解する大切さを教えてくれる。包摂的な社会のあり方に、多くの示唆を与える一冊だ。
今回の評者 = 安藤 奈々
情報工場エディター。11万人超のビジネスパーソンに良質な「ひらめき」を提供する書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」編集部のエディター。
「コーダ」のぼくが見る世界
著者 : 五十嵐 大
出版 : 紀伊國屋書店
定価 : 1,760 円(税込み)
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