ちゃんと 編集部
2025.10.31
学生時代、人間関係がイヤになったり、自分に自信が持てずネガティブになったりすることはよくあります。この11月、デフリンピック・ビーチバレーボール競技で日の丸を背負って戦う堀花梨さんもそのひとり。ビーチバレーとの出会いが人生を好転させました。
スポーツの経験を通じてメンタルが強くなった
── いよいよ、今年11月15日から創設100周年を迎える聴覚障がい者を対象とした国際的な総合スポーツ競技大会「デフリンピック」が日本(東京)で開催されます。女子ビーチバレーボール競技でメダルを狙える伊藤・堀ペアの堀花梨さんは、競技を始めてわずか4年とのこと。そもそも始めたきっかけは?
堀さん:運動は小さなころから好きで、中学では男子に混ざって野球部に入っていました。実際は、運動系の部活が野球しかなかったからだけなんですけどね。高校では身長もそこそこ高かったことや新しいスポーツにも挑戦したい気持ちがあり、バレーボール部に入部。部活で出会った伊藤碧紀さんからあるとき、「(私は)ビーチバレーボールもやっているから、一緒にやらない?」と、誘いを受けて競技を始めたのがきっかけです。彼女とはいまもペアを組む仲です。バレーボールもおもしろいのですが、屋外で行う開放感など違った魅力を感じ、のめりこんでいきました。

伊藤選手(写真左)とは高校時代に誘われて以来ずっとペアを組んでいる
── 野球から、バレーボール、ビーチバレーボールと続くスポーツ歴を聞くと、けっこう活発に行動するタイプだったのでしょうか?
堀さん:運動はもとから好きでしたが、性格はネガティブなほうだと自覚しています。でも、スポーツを通じて、とくに高校時代のバレー部での経験が自分のマイナスになりがちな考え方を変えてくれたんです。バレーボールを始めた当初は、技術不足で猛練習をするなど苦しい時期がありました。それで悩んだこともあります。周囲は中学のころからのバレーボール経験者ばかりで、レベル差も感じていましたから。
基礎的な技術を身につけたいと思ってコーチとマンツーマンで指導をしてもらい、スパイクの打ち方からレシーブの受け方まで、みっちりと教えてもらいました。技術レベルがあがってレギュラーになれたことで、自分に自信がついた経験は大きかったです。努力したことが結果につながる経験をしたのは初めてだったように思います。それまでは、ずっと不安でマイナス思考だったから、途中で転部を考えたこともあったくらいでしたから。
3歳で判明した感音性難聴
── ご自身の耳のことをおうかがいしたいのですが、生まれたときから耳が聞こえなかったのでしょうか?
堀さん:生まれつき「感音性難聴(内耳、聴神経や脳の障害が原因で音の信号が脳に正しく伝わらない)」だったようですが、そのことが判明したのは3歳のときだったと母から聞かされました。幼かったので私自身はそのころの記憶があまりありません。
病名が判明するまでは親が病院をいくつか回っても、風邪としか判断されなかったと聞きました。ようやく障がいであることが病院で告げられてからは、母も不安だったと思いますが、補聴器を用意してくれたり、保育園をどうするかなど考えてくれたりしたそうです。私自身は補聴器をつければ人の声はだいたい聞き取れますし、話し手の唇の動きで言葉を理解する口話も身につけ、ふだんのコミュニケーションはそこまで不自由はしていません。
親も病名がわかって以来、手話や口話を学んで使っていくようになり、幼いころから全面的にサポートしてくれて感謝しかありません。保育園は最初、ふだんは健聴者が通う園に通い、週1日は難聴者の子だけの園にも並行して通園していました。ただ、徐々に後者の園に通うように。健聴者だけの園は、どうしても耳が聞こえない子どもに対する知識や理解が乏しく、私自身のことを考えて耳が聞こえない子たちだけの園のほうが過ごしやすいと判断したからだそうです。小学校以降は、難聴者の学校に通いました。
── ご本人としても小さいながら大変だったと思いますが、親御さんも根気よく対応したことがわかりました。その後はどうされたのですか?
堀さん:ろう学校の高専科に入学したのですが、環境になじめず辞めてしまいました。その後は、少しでも社会経験を積みたいと思ってアルバイトをしながら、ビーチバレーを続ける生活でした。最初は大手ハンバーガーチェーンの裏方として働くアルバイトに就きました。応募時に難聴者であることはお伝えして、ほかのスタッフの方からも理解され、協力的な環境でした。
ただ、全員が全員そうではないので、人間関係で難しい面もあり、1年で辞めて、その後は飲食店でホールスタッフとして仕事をしました。お客さまからオーダーをとる際、聞き取れず繰り返し聞くこともあり、途中から「難聴です」という缶バッジをつけて働くと、多くのお客さまも気づき配慮してくれたのでなんとか続けられました。といっても、それなりに人間関係は難しい面があります。
でも、私はアルバイト帰りに社会人のビーチバレーボールチームに入って練習していたので、そこでは健聴者も難聴者も関係ありません。純粋に競技に打ち込めて、みんな同じ競技の仲間だったので、ひとつの居場所ができた感覚があり、メンタル的に安定できたのは大きかったと思います。練習は週3、4日で、長いと1日に3時間程度は行っていました。
出るからにはメダルを狙って戦う
── 現在は、社員として働きながらビーチバレーボール選手としても活動されているそうですね。
堀さん:現在所属する会社(大成温調)からお声がけいただき、主に会社がアスリートを応援するサイト「LIVSON×SPORTS」の記事作成や所属する各選手の日程管理、成績などの情報を更新するオフィスワークを担うIR広報部員として働いています。ふだんは目安として、9時から16時までデスクワークでの仕事を行い、退社後、移動して19時ころから約2、3時間ビーチバレーの練習を行っています。
会社自体、2017年からビーチバレーの普及に携わり、大会の協賛や選手支援に積極的で、障がい者支援も視野に入れていて、デフビーチバレーのサイトをご覧になっていただいた際に、私たちのペアを見つけてくださり、声をかけてくれたそうです。
私自身は社会の一員として働きたい気持ちが強く、会社が意図を汲んで広報部員として席を用意してくれて、競技費用の支援もいただけていることを本当にうれしく思い、応援してくれることへの感謝しかありません。いまは仕事を始めたばかりなので、役割をまっとうするので精一杯です。でも、まだ具体的なものは見えてはいませんが、いずれは障がい者アスリートの立場だからこそわかる、ほかのアスリート支援を担えたらと思います。選手としてもこの恵まれた環境を活かし、応援してくれる人たちのためにも、デフリンピックでいい成績を出そうと思うようになりました。

自身初のデスクワーク仕事が今年5月から始まった
── これまでいろいろと人間関係などご苦労されたなかで、いまは仕事もビーチバレーも目標を持った日々を過ごしていると思います。
堀さん:伊藤さんと組むデフビーチバレーは練習を繰り返し、技術レベルもあがったことで成績が向上。昨年は日本チャンピオンになり、今年の日本代表選考会でも準優勝でデフリンピックの出場を決めました。ただ、とんとん拍子で成績があがったわけでなく、最初はバレーボールとビーチバレーの違いにとまどいました。ビーチバレーは地面が滑りやすい砂だし、チームも2人しかいない(バレーボールは6人制)。おまけに屋外のスポーツなので、とくに風の影響は大きい。どのくらいの高さにトスを上げるとペアの相手が打ちやすいかなど、2人しかいないからこそ、瞬間的な判断も求められます。
逆にビーチだからこそのおもしろい部分もあり、下が砂だから思いきって飛び込んでボールが地上に着くスレスレであげることができたり、6人制とは違って、スパイク、レシーブやトスなど、プレーの機会が増える楽しさもあります。瞬間瞬間で、お互いがプレーをとっさに判断していく面でもおもしろさを感じます。
── 現在の目標はやはりデフリンピックのメダル獲得でしょうか。
堀さん:出場するからにはメダルが大きな目標であり、実際に狙える位置にいると思っています。伊藤さんとの連携や技術はどんどん上がっているし、いいパフォーマンスを発揮して、結果がついてくればうれしいです。
これまで人間関係や将来の不安などあったけれど、ビーチバレーに出会えたことで、そこで会う人たちと交流して自分の居場所が見つかり、新たな仕事にも巡り会えました。そうした感謝の気持ちをもって、デフリンピックでも自分の力を発揮できるよう頑張りたいと思います。
取材・文/西村智宏 写真提供/大成温調株式会社、堀花梨
【写真】迫力満点!ビーチバレーでスパイクを打つ堀花梨さん(6枚目/全7枚)
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