2025年6月24日 19時14分

手元に届いた案内には「聴覚障害者に優しいクラブが開かれます」と書かれていました。
「クラブ」というと若者が音楽やダンスを楽しむ場所ですが、「聴覚障害者に優しい」とはいったいどんなクラブなのか。
そこには、ある女性の思いが込められていました。
(上海支局長 道下航)
「低音につかる」?“Bass Bath”
中国の経済や若者文化の中心地・上海。
ここで、去年から開かれている「聴覚障害者に優しいクラブ」のイベントが今年も開かれると聞き、取材に訪れました。
会場の飲食店には通常のクラブのようにDJブースと大きなスピーカーが設置され、大勢の若者が集まっていました。手話で会話をする人の姿も見られます。
照明も普通のクラブよりは少し明るい印象で、手話が見えるように配慮されていました。
イベントがスタートし、音楽が流れ始めると、音は少し体に響くように感じます。耳が聞こえない人も音楽を楽しめるよう、体に響く低音を強調しているとのことでした。
イベントの名前は“Bass Bath”、意訳をすれば「低音につかる」といったところでしょうか。このクラブの特徴が込められた名前です。

障害超えてマッチング
しばらくすると、ゲストダンサーが登場。
簡単な動きを身振り手振りで教えると、若者たちは見よう見まねで踊り始め、会場はあっという間に一体感に包まれました。
さらに、この日は、バレンタインデー直後に開かれたイベントということもあり、特別なゲームも用意されていました。
主催者が男女をグループに分けて向かい合うように並べると、マッチングアプリさながらに気にいった人を選んでいくゲームがスタート。
ゲームの結果、数組のカップルが成立しました。
中には、聴覚障害のある女性と障害のない男性のカップルも。2人は、会場の隅にあるソファーに移動すると、スマートフォンのメモ機能を使いながら、交流を始めました。
初めは恥ずかしそうにしていた2人でしたが、最後には連絡先も交換していました。
女性
「踊っているときはとても楽しくて、自由だと感じました。この場所での交流に障害は関係ありません。自分がまるで聴覚障害者ではないように感じました。
きょうは、マッチングで男性とも出会えるという、意外な“収穫”もありました。これから2人がどう発展するかは運命に任せたいです」
男性
「彼女はとてもかわいかったですし、性格もとてもよかったです。もっと仲良くなりたいです。一緒にご飯を食べたり同じようなクラブに行ったりできないか、誘ってみようと思います。手話も勉強してみるかもしれません」

“別の世界”に住んでいた
このクラブイベントの主催者の1人、胡暁シュさんは耳が全く聞こえない聴覚障害者です。上海市に住みながら、手話講師として働いています。
会場では笑顔で来場者にあいさつしたり、手話だけでなく全身で感情を表したりするようなエネルギッシュな姿が印象的でした。

クラブイベントを主催した 胡暁※シュさん(※「女」へんに「朱」)
胡さんの耳が聞こえなくなったのは生まれて半年ほどたったころ。熱が出て受診した医師による投薬ミスが原因だったそうです。
高校生までろう学校に通い、手話で両親と会話する以外、耳が聞こえる人との交流はほとんどありませんでした。
そのため、手話を使う自分と、耳が聞こえる人たちは「2つの別の世界」に住んでいると感じてきたと言います。
胡さん
「私の友達に耳が聞こえる人はほとんどいませんでした。外で手話を使っていると、からかわれたり差別されたりすることもありました。何度も変な目で見られたり、不思議そうに私を見たりする人もいました。
ほかの家の親に『外では手話を使わないように』と言われることもあり、『なんでそんな風に私を見るのだろう』と、とても居心地が悪く、傷つきました」

「“2つの世界”の壁をなくしたい」
そんな思いを抱えてきた胡さんに転機が訪れたのは大学時代。ヨーロッパで開かれた聴覚障害者が集まるキャンプに参加したときのことでした。
キャンプではドイツやフランス、オーストリアなどを訪れ、各国の参加者と交流。そのとき初めて、聴覚障害者が同情や支援の対象だと受け止められることなく、誰もが自立し自信を持っている姿を見て、驚いたのです。
障害者をそうした気持ちにさせる社会についてもっと知りたいと考えた胡さんは、オーストリアへの留学を決意しました。
そして、手話通訳者の協力を得ながら、現地で芸術などを学びました。

留学していた頃の胡さん
さらに、卒業後も現地に残り、障害のある人も働きやすい職場整備を支援する企業に就職。舞台演劇などの活動をしながら、芸術の勉強も続けました。
コロナ禍を機に、2021年に中国に帰国。
今は、イギリスに拠点を置く団体のメンバーとして、聴覚障害者の訴えを表現した作品を国内外で発表するなどしています。
そして、「聴覚障害者に優しいクラブ」の企画を通じて、自分が小さいときに感じた聴覚障害者と、耳が聞こえる人たちの「2つの別の世界」の間にある壁をなくしたいと、活動しています。

建物に映し出された 胡さん出演の映像作品
手話通訳者は1万人にたった3人?
中国では地域によって使われている手話が異なり、さまざまな手話があります。
このため、テレビで使われている手話について「多くを理解できる」と答えた聴覚障害者が1割に満たなかったという調査結果があると伝えられるなど、標準的な手話の浸透が十分ではないとされています。
聴覚障害者は全土でおよそ2780万人いるとされている一方(2006年の政府調査)、中国メディアは「聴覚障害者1万人に対して手話通訳が3人程度しかおらず、極めて少ない」と指摘するなど、手話通訳の普及が大きな課題となっているのです。

“ろう者”という呼び方がない世界へ
こうした中、手話講師として働く胡さんが今、力を入れているのは、手話を身近なものにする活動です。
手話を必要としている人に教えるだけでなく、これまで聴覚障害者や手話との接点がなかった人を対象にした体験講座も行っています。

上海市中心部にあるカフェで開かれた胡さんの体験講座に取材に行くと、25人ほどの人が集まっていました。多くの参加者は、手話を習うのは初めてだといいます。
胡さんは、簡単なあいさつやゲームも取り入れながら、リラックスした雰囲気で手話の楽しさを伝えていました。
参加者の男性
「聴覚障害者の方の日常を理解したいと思い、参加しました。また機会があれば、このような講座に参加したいと思います」
参加者の女性
「胡さんはとてもユーモアがあり、講座の雰囲気はよかったです。
今のところ、聴覚障害者と一緒になる機会はないのですが、そのような機会があるときは、コミュニケーションをとることを諦めないようにしたいです」
クラブイベントがメディアで取り上げられるようになったことで、手話を学びたいという問い合わせが増えているという胡さん。
多くの人が手話に興味を持つようになれば、手話を身近なものにできるだけでなく、手話を仕事にしている聴覚障害者の仕事も増やすことができて、手話が普及する好循環につながると信じています。
胡さん
「上手に使いこなせなくても、簡単な手話しか知らなくてもいいのです。
多くの人が新しい言葉を学ぼうとしたり、私たちの世界に積極的に入ろうとしたりしてくれることがとても嬉しいのです。そして、手話が広がって“ろう者”という呼び方が徐々になくなってほしいです」
取材を通じて
中国では、不動産不況や景気減速の中で、目の前の生活にとらわれる人が多くなっていると感じます。
そうした中でも、胡さんの活動がいろいろな人を巻き込み、関心や共感を呼んでいるのは、明るくてエネルギッシュな胡さんのキャラクターがあってこそだと感じました。
ことし11月には聴覚障害者の国際スポーツ大会「デフリンピック」が日本で開催されます。大会は100周年という節目を迎えますが、日本での開催は今回が初めてです。
70から80の国と地域からおよそ3000人の選手が参加する見通しの大会のビジョンの1つは、誰もが個性を活かし力を発揮できる「共生社会の実現」。
聴覚障害を持つ人への理解が深まるきっかけとなる1年になればと思います。
(4月30日「ニュースーン」で放送)
上海支局長
道下 航
2009年入局 仙台局 国際部 ハノイ支局を経て
2022年8月から現所属
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