2025/10/11 12:10
栗原守
2025年11月のデフリンピック東京大会(読売新聞社協賛)の開催が近づいてきた。聴覚障害のある人たちへの関心が高まる中、彼らの多様性を知るために、難聴者支援を行う会社「デフサポ」の代表取締役・牧野友香子さん(37)を訪ねた。牧野さんはほとんど音が聞こえないが、手話を使わず、読唇術で聴者と意思疎通を行う。現在はアメリカで家族と住み、企業の経営や難病の子どもの育児など力強い歩みについて紹介したい。(栗原守)
試練でも個性でもない聴覚障害

ほとんど聞こえないが、明るい声で話す牧野さん
「聞こえないことは、私にとって試練でも個性でもありません。私を形作っている中に『聞こえない』ということがあるだけ。自分の性格、人間関係、得意・不得意などの一つの要素として『聞こえないこと』があるという意識です」
牧野さんはアメリカ・テキサス州在住で、帰国する機会に時間を頂き、横浜市内で話を聞いた。時折こぼれる関西弁と明るいトーンで自分の生活や、考えを話してくれた。
終始笑顔が絶えない。やや声が大きいのは聴覚障害のためだ。「120デシベルの『スケールアウト』で、計測できないほど聞こえないという難聴です」と話す。第1言語は手話ではなく、日本語が基本だ。幼稚園のころから、友人の口の形を読み取って「聞き取り」、声で話をして意思疎通をしてきた。「地元の友達から、イントネーションまで教えてもらい習得した」という関西弁交じりの言葉は、力強さもあった。
読唇術で学校生活を堪能

自分自身の経験を話す牧野さん
「発音ができるようになるには苦労しましたが、読唇は得意な方でした」という。聴者と席を並べた小中学校の授業は、先生が黒板に向かうと口元が見えないため分からなくなる。「おそらく授業は3割程度しか分からなかった」というが、分からない部分は教科書で確認したり、予習で補ったりして工夫したという。
高校では友達に恵まれたものの、勉強は全くついていけなかった。進学校ということもあり、授業の進み方の早さについていけずかなり悩んだという。友人にノートを見せてもらったり、先生に質問をしたりしたが、難しいことが多かった。
聞こえについての困りごとは、「誰かに相談したところで、なかなか改善しづらい」と感じていたので、「悩むより解決」と、自分で具体的に改善法を考えるのが習慣になった。塾に通ったり、先生に個人的に質問したり、友人にノートを見せてもらったりすることで高校時代を乗り切った。
神戸大学に進学すると、世界が変わったという。「高校まではクラス単位で生活していたので、その雰囲気に合わせて過ごしていたが、大学に入ると『合わせる』ことから自由になり、聴覚障害は強みになった」と話す。
解放感から海外旅行やスノーボードを満喫した。学業も大学側から「大学院に進学したらどうか」と勧められるほどで、充実した生活を送ったという。就職の面接では、聴覚障害を自ら話題とし、海外旅行で外国の入国審査をどう通過したかを話すと、面接官は関心をもってくれた。大学卒業後、電機大手のソニーに入社し、人事部で働き始めた。そこで社会人としての力量を付け、2017年「デフサポ」を設立した。18年にはソニーを退社し、ビジネスにまい進することになる。
難聴の子をもつ親に寄りそう

現在は日本とアメリカを往復して事業を展開している
牧野さんの人生に強く影響したのが、難病で生まれた長女の存在だった。「難病として症例が少ないことから、この先どうなるのか、学校に行けるのか、歩けるのか、不安でいっぱいだった」という。
この経験から障害をもつ親の気持ちが分かるようになったという。「難病は分からないけど、難聴については多少とも分かる。自分の経験が励みになれば」と考え、支援に打ち込んだ。
デフサポの仕事は、聴覚障害の子どもを出産した親が「子どもの将来が真っ暗だ」「生きて行くにはどうしたらいいの」と訴える不安に応えていくことから始まり、事業が広がっていった。
自らの生き方を通じて「聞こえないことは絶望でも何でもない」ということを伝えようと、インターネットで動画配信を始めると、合計再生回数は1億回を超えた。その後、アメリカの聴覚障害の現状に関心を持つようになり、家族とアメリカ・テキサスに渡った。会社の経営はオンラインも活用している。日本とアメリカを時折往復する仕事スタイルで、「経営者としての仕事の楽しさを知ってしまうと会社員には戻れない」と、子育て、ビジネスに全開だ。
デフリンピック開催もあり、聴覚障害の当事者がSNSや動画共有サイトで、自らの情報を発信することが増えた。明るく生きる姿が伝わるようにもなってきた。「私が動画を始めたころは、当事者の情報発信は珍しがられた。でも今は、多くの当事者が発信するようになり、そろそろ『お役御免』かな」と笑顔で話す。
牧野さんの理想は、「聴覚障害者が華やかに、バリアなく生きられるようになる世の中」になること。「だからこそ、最終的にデフサポが必要ない社会になってほしいと思っている。私たちの仕事の領域が増えると言うことは、社会に何かが足りていないと言うことですので」と話す。だが現実には、業務は絶えない。デフサポには、講演依頼や難聴理解の教育や障害者採用への助言などが求められ、仕事の内容も多様化している。
まきの ゆかこ 1988年大阪市生まれ。難聴当事者の知見や経験と言語聴覚士スタッフの専門性を生かし、難聴者の言葉の土台を作る事業や、企業研修を展開する株式会社デフサポの代表取締役、株式会社マスドライバーの取締役を務める。大学学時代はスノーボードに熱中して冬季に「山ごもり」したり、海外旅行を楽しんだりする行動的な側面もある。夫、2人の子どもと家族4人でアメリカで暮らす。
牧野さんのインタビュー動画は以下をご覧ください。
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