齋田 多恵
2025.10.20
両親がろう者で自身は耳が聞こえる「コーダ」でもある、お笑いタレントの大屋あゆみさん。前職は市役所で設置手話通訳者。しかし、ひょんなことからお笑い芸人の道へ。現在は手話と笑いを融合させた「劇団アラマンダ」も主宰しています。(全3回中の3回)
うつ状態で苦しいときに見た吉本の開校CM
── 大屋さんは現在、沖縄でお笑いタレントとして活動されています。ご両親がろう者で子どものころから手話通訳をしていたそう。その経験を活かし、以前は「市役所で設置手話通訳者」 として働いていたとうかがいました。そこからお笑い芸人になったきっかけを教えてください。
大屋さん:じつは、お笑い芸人になりたいと考えたことはありませんでした。人を笑わせるなんて、私にはムリだろうと思っていました。でも、子どものころから芸能界に憧れてはいて。ちょうど沖縄アクターズスクール出身の安室奈美恵さんやSPEEDさんが一世を風靡していたこともあり、テレビに出るタレントになれたらいいなと、ばくぜんとは思っていました。
同時に「ろう者と健聴者の橋渡し役となる仕事をしたい」という夢も抱いていました。ずっとろう者である両親を手話でサポートしていたので、この強みを生かしたいと考え、市役所の設置手話通訳者となりました。
でも仕事や人間関係がハードで…。2011年にはうつ状態になり、家に引きこもりがちだったんです。ちょうど東日本大震災もあり、テレビやニュースではずっと災害の様子が報道されていた時期でした。世間の空気も、悲しみに満ちていて…さらに追い詰められました。もちろん沖縄在住の私自身は直接被害を受けていないのですが、3日間一睡もできないほど切羽詰まった状態になってしまって。周囲からは病院に行ったほうがいいと勧められました。

両親はろう者だが、兄と大屋さんは耳が聞こえた
── 当時は誰もが苦しい状況でした。大屋さんも仕事で大変な思いをしていた時期と重なり、とてもつらかったと思います。
大屋さん:病院に行くと、待合室でテレビが流れていました。震災のニュースがつらくて、テレビを観ないようにずっと下を向いていたんです。すると急に明るい音楽が聞こえてきて。顔を上げると「吉本興業が沖縄に養成所を開校します。一期生募集中!」というCMが放送されていました。落ち込んだ精神状況のときに、その楽しそうな様子はひとすじの光のように感じられました。言葉ではうまく説明できないものの、雷に打たれたように「私が進むべき道はこれだ!」と、直感したんです。子どものころ夢だったタレントになりたいと思い、帰宅してすぐに養成所について調べてみました。
制作で応募も面接で「芸人向きだよ」と言われ…
── うつ状態でつらいときに、運命の出会いがあったのですね。
大屋さん:養成所にはお笑いコースと総合制作コースがありました。残念なことに、希望していたタレントコースがなくて。私はお笑いに向いていないと思ったし、制作はピンと来なかったから「タレントコースはありませんか?」と問い合わせたんですが、やっぱりなくて…。それで、裏方でもテレビに関わる仕事がしたい!と思い、総合制作コースに申し込みました。
無事に書類審査が通り、面接を受けることになったんです。集団面接で、1、2分ほどの自己アピールする時間がありました。すると、一緒に面接を受けている人たちは「将来テレビ番組を作りたい」や「コントで作る小道具を作りたい」など、しっかりとした志望動機があって。私は勢いで制作コースを選んだから、何をやりたいかをいっさい考えていなかったんです。だから、いざ自分の番になったとき、志望動機とは関係なく「私は人と話すことや楽しいことが大好きで、すごくおしゃべりです」みたいなことをワーッと話しました。

大屋さんが座長を務める劇団・アラマンダのメンバーと(前列中央が大屋さん)
── 面接官も驚いたのではないでしょうか。
大屋さん:意外にも面接官の方たちは私の自己アピールに興味を抱き、5分~10分くらい耳を傾けてくれました。私の話を聞き終わると「君は裏方じゃなくて表に出るべきだと思うよ。お笑いコースに変更したほうがいい」と言われたんです!
びっくりして「もうすぐ27歳になるし、今さら芸人をめざす年齢じゃありません。女芸人は天下がとれないって話も聞くし…」など、いろんな言い訳をしたんですが…。面接官には「椿鬼奴さんは27歳で養成所に入ったよ。いまの時代、鬼奴さんはもちろん、森三中さん、渡辺直美さんなどたくさんの芸人が活躍しているよ」と、全部、論破されたんです。
── そこまで勧められるとは。そのときはどう感じましたか?
大屋さん:「まずい…。これ以上、言い訳をしたら落とされる」と思いました(笑)。それで、お笑いコースに変更して、入学したんです。あのときにお笑いを勧められなかったら、いまの自分はいませんでした。あのときの面接官にはすごく感謝しています。ひそかにずっと「私の恩人」だと思っています。
定期的に反対する母の言葉がやる気につながる
── 2011年4月に吉本興業の養成所である「よしもと沖縄エンターテインメントカレッジ」に入って経験を積んだ大屋さん。2018年、手話コメディー集団「劇団アラマンダ」を立ち上げたそうですね。聞こえる人も聞こえない人も楽しめる劇団とのことですが、どんな経緯で設立にいたったのでしょうか?
大屋さん:養成所に入ったときに「いつか手話とお笑いを融合させてみたい」と考えていました。とはいえ、お笑い自体をよく知らないままこの世界に飛び込んだし、自分のなかに引き出しがなかったから、ずっと何をどうしたらいいのかわからなかったんです。
2014年、ガレッジセールのゴリさんが「おきなわ新喜劇」を立ち上げました。那覇市の国際通り沿いにできた常設劇場「よしもと沖縄花月(2022年閉館)」で毎週、公演を行っていて、私も参加させてもらったんです。そこで新喜劇のお笑いについて学びました。
そのときに「新喜劇に手話をつけたらおもしろいだろうな」と感じました。経験をつみ、自分のやりたいことのイメージが少しずつできていくなか、2年後の2016年4月1日に「沖縄県手話言語条例」がスタートしました。これは聴覚に障がいがある人とそれ以外の人が、意思疎通を行うために「手話」が必要な言語だという認識のもとに、手話の普及を図るものです。
その条例にまつわるイベントが数多く開催されるなかで、私も「手話ができる芸人」として呼んでいただく機会があって。手話通訳時代の仲間に再会したり、手話に関わる人たちと知り合ったりしたんです。それで2018年「沖縄聴覚障害者情報センター」5周年のお祭りで聞こえる人、聞こえない人でも楽しめるお笑いを披露してほしいと依頼されました。
──どんな演目を行ったのでしょうか?
大屋さん:所属する「よしもとエンタテインメント沖縄」の仲間を呼び、手話つきの漫才や、言葉がなくてもおもしろさが伝わる、体を張った芸を行いました。芸人たちが頭の上でテーブルクロス引きをしたり、ゴム手袋を鼻までかぶって鼻息で割ったりする芸を披露すると、ろう者の方々がとても喜んでくださって。そのときにようやく、ずっと自分のやりたかったものが形になった気がしました。その後、よしもとエンタテインメント沖縄の仲間と一緒に劇団・アラマンダを立ち上げました。
じつは、母は私が芸人になることをずっと反対していたんです。「芸事では食べていけない。この先どうするの?」と言われ続けていて。娘を持つ親としては心配になるんだろうなと思いました。私自身も母の言いぶんはその通りだと思うし、焦る気持ちもあります。でも、お笑いを始めてからは楽しくて辞める気はありませんでした。「いつか母に認めてもらいたい」という気持ちも抱いていて。実際に劇団・アラマンダの公演を観た母は、とても楽しそうに笑っていたんです。
── ようやくお母さんに認められた瞬間だったのですね。
大屋さん:母が喜んでくれる姿を舞台袖から見て、すごくうれしかったです。でも、そこで終わらなくて…。母は公演が終わってしばらくは応援してくれるんですよ。でも、時間がたつと気持ちも冷めるのか、「この先どうするの?芸事は食べていけないよ」と、また同じことを言われるんです(笑)。これは定期的に公演を続けなくては…と思いました。でも、それがモチベーションにもつながっています。ある意味とてもありがたいです。
私は自分のことをすごくラッキーだと思っています。これまでの人生を振り返ると、大きな転機があるんですよ。先ほどお話した、面接でお笑いを勧められたのもそのひとつです。実際にお笑いを始めて数年経ち、しんどいなと思ったタイミングで大きな仕事をいただいたこともあります。こうして手話とお笑いを融合させられたのも、いろんな縁に恵まれたおかげです。
── 今後の目標はありますか?
大屋さん:これからも、手話とお笑いの融合をめざしたいです。そして、もうひとつの大きな夢として、手話をもっと普及させたい。手話はひとつの「言語」です。だから、ろう者の方のなかには音声言語の日本語が理解できない人もいます。とくに私の親世代は、文字に書かれた言語(日本語)を見ても理解するのが難しい人もいます。だからテレビなども字幕をつければみんなが理解できる、というわけでもないんです。
とても壮大な夢なんですが、テレビや舞台、雑誌などで当たり前に手話がついている世界になったらいいなと思っています。テレビには当たり前に手話通訳が映っていて、雑誌にはQRコードが載っていて、読み込んでアクセスしたら手話通訳の動画が見られるといったふうに。そして、たくさんの人に楽しく手話を学んでもらえたらとも思います。少しでも手話に興味を持ってもらえるよう、たくさん公演できるよう頑張りたいし、SNSでの発信もしていきたいです。
取材・文/齋田多恵 写真提供/大屋あゆみ
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