
今年度も1か月が過ぎ、新しい生活に慣れてきたころではないでしょうか。
キッチンカーで移動販売をしていた男性が、この春から大学で飛行機の操縦士を養成するため教鞭をとっています。異色の経歴を持った元パイロットの男性を取材しました。
(津野拓士さん)「見えたら進入、見えなかったらゴーアラウンド」
霧島市に住む津野拓士さん(49)です。第一工科大学で、航空工学部の准教授としてパイロットを目指す学生の指導をしています。

津野さんは今年3月まで、野菜がたっぷり詰まったハワイアンサンドイッチを霧島市の店やキッチンカーで移動販売していました。
最初からハワイアンサンドイッチの移動販売をしていたわけではありません。
四国・高知県で生まれた津野さん。桜島や霧島山など火山について学びたいと鹿児島大学理学部に進学。卒業後は、海上自衛隊に入り鹿屋航空基地などで飛行教官も務めました。


37歳のとき、自衛隊から転職し日本エアコミューターに入社。国内線のパイロットとして空を飛ぶ毎日でした。
(津野拓士さん)「いろんな空の表情が見えるのが南の島、おもしろくて、好きで飛んでいた」
幼い頃からの夢だった空の仕事。しかし、43歳のとき耳に異変を感じます。
検査の結果、ある一定の周波数が聞こえなくなる「感音性難聴」とわかりました。左右の耳で別の音を聞き分けなければならないパイロットにとって仕事を続けられないことを意味していました。

(津野拓士さん)「きのうまで飛んでたのに、現代医学では治せないといわれて。すごく荒れた、何か虚無感というか」
そばで見てきた家族にとっても辛い日々でした。

(妻・香代さん)「現実がわかってきたときに、すごく辛かっただろうなと思っていた」
航空会社を退職した後も、空港近くで離着陸する飛行機を眺める日々が続いたといいます。
(津野拓士さん)「目の前を離着陸している飛行機は、一緒に頑張った友達や先輩が一生懸命やっていて、何やってんだろうと思って」
44歳のとき、新たに挑戦したのがハワイアンサンドイッチづくりです。自衛隊時代に任務で訪れたハワイで、その味にほれこみました。

パイロット時代の経験から、「忙しい時でも手軽に食べられる」サンドイッチをキッチンカーで販売。
夫婦で県内外のイベントを周る忙しい日々でしたが、去年、再び転機が訪れます。大学から「パイロットを目指す学生を指導をしてほしい」と打診があったのです。
ファンも多かった津野さんのハワイアンサンドイッチ。キッチンカーの営業も続けながら、非常勤講師として不定期で講義をしていましたが…
(津野拓士さん)「学生が出店先までわざわざ来てくれたりして、もうちょっと何か、できることないかなと」

3月にキッチンカーの営業を終了。この春から准教授として毎日学生と向き合っています。
講義では航空力学などの座学のほか、シミュレーターを使った操縦訓練もします。

(学生に指導する津野さん)「パイロットは人やものを運ぶだけではなくて、見送りに来ている人、出迎えに来ている人の気持ちも運ぶ仕事。安全はもちろんお客様が少しでも快適に過ごせるようにするのも仕事」

(4年生)
「わからないことがあったらキッチンカーしているところまで行って、質問したり軽く話したりしていた。社会人、人としてのあり方も教えてくれるので力になっている」
昼休みになると行くところがあります。
歩きながら空を見上げると…
(津野拓士さん)「飛んでいるのはJACのATRという航空機。当時、一緒に頑張っていた人たちが頑張っていると思って元気をもらっている」
キャンパスから歩いて5分の場所にある、かつて店をしていた場所で、妻・香代さん手作りの弁当を食べます。この日のおかずは、鹿児島の郷土料理の「がね」。サツマイモや野菜を切って揚げた天ぷらです。

(津野拓士さん)「きょうのご飯だと、がねが好き。がねも好き(笑)」
(妻・香代さん)「いろいろあったけど楽しかったよねと言える過ごし方をすると思うし、私もそうしたい」
あこがれていた空の仕事から、挫折を乗り越え、キッチンカーでの移動販売…。これまでの経験すべてが今に生かされていると語ります。

(津野拓士さん)「人間として遠回りはしているけど、最終的に目的としているものについては蓄えることがいっぱいできて、豊かな人生を歩んでいると思う。『津野先生ここまで来られました』と言ってもらえる存在になりたい」
一度は諦めた大好きな空への思いを胸に、これからはパイロットの卵たちの育成に励みます。
リンク先はMBC南日本放送というサイトの記事になります。
