Well-being LDの視点『音の壁を越える共生社会への旗手』

Well-being LDの視点『音の壁を越える共生社会への旗手』

第一生命経済研レポート
2025.10.21
後藤 博

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1 東京2025デフリンピックの開催

2025年11月15日から26日にかけて東京を中心に静岡、福島の地で約20の競技場を舞台に「第25回夏季デフリンピック競技大会東京2025」が開催される。デフリンピックは、聴覚に障害のあるアスリートのための国際的なスポーツ大会である。本大会は、デフリンピック史上100週年の節目にあたり、夏季・冬季を通じて、日本で初めて開催される国際的なスポーツイベントである。世界70~80の国・地域から約3,000人のアスリートが集結し、陸上、水泳、サッカー、バスケットボール、バドミントンなど21の競技が繰り広げられる予定である。

大会ビジョンには、資料1のとおり、三つの柱が掲げられている。

図表「大会ビジョン三つの柱」

これらのビジョンは、聴覚障害に対する社会の認識を刷新し、誰もが暮らしやすい社会を築くための変容を促すことが期待されている。

本稿は、これらのビジョンを掲げる「東京2025デフリンピック」について、「生活の資、豊かさの向上」という視点から検討する。具体的には、大会運営に導入される革新的な技術や環境整備といった「ハード面」と、人々の意識やコミュニケーションを変革する「ソフト面」の両面から、短期的な社会的インパクトと長期的なレガシーについて考察する。考察にあたっては、全日本ろうあ連盟の発行する資料等を参考にした。


2 デフリンピックの独自性と意義


1)パラリンピックとの差異

デフリンピックの歴史は、他の国際障害者スポーツ大会に比べて特筆すべき独自性を持つ。1924年にフランスで初めて開催された本大会は、1960年に始まったパラリンピックよりも長い歴史を誇る。その最大の特徴は障害当事者が中心となって運営している点にある。

パラリンピックとの差異


2)アスリートの挑戦とデフスポーツの魅力

聴覚障害は「見た目にはわかりにくい」という特性から、この見えにくさは社会からの理解不足や誤解を招きやすい。スポーツ競技という側面においても、聴覚障害はアスリートに特有の困難をもたらす。例えば、人は音からの情報を用いて体のバランスをとるため、聴覚障害者は平衡感覚を保つ上でハンディキャップを負う。また監督やコーチとの音声によるコミュニケーションあるいは風や打球音といった音からの情報が得られないことは、競技における判断や状況把握を困難にする。

聴覚障害者が行うデフスポーツは競技環境に視覚的な情報を保障することで、聴覚のハンディキャップを克服している。陸上競技ではスタートのピストルの音の代わりに、光が点灯するフラッシュランプが用いられる。審判は笛だけでなく、旗や手で選手に合図を送る。こうした視覚的工夫は、単なる補助設備ではなく、聴覚障害という特性を前提とした上で、競技の公平性を確保するための根幹をなす。

デフリンピックは競技ルールそのものが、多様、受容、公平の側面を具現化し、インクルーシブな社会の本質を問い直す機会を提供する。


3 生活の質・豊かさに向けた実証


1)革新的な技術と環境の整備(ハード面)

東京2025デフリンピックは、聴覚障害者向けの先進技術を導入し、社会実装のための「リビングラボ」として捉えられている。

具体的には、話者の感情をフォントや色で視覚的に伝える「透明スクリーン感情字幕」、複数人が同時に話す場面で誰が発話しているかを視覚化する「VUEVO」が注目される。また、補聴を援助する磁気ループシステムの活用や、既存施設の最大限活用による物理的アクセシビリティの確保、わかりやすい案内サインの設置も進められている。これらの技術や設備は、大会終了後の公共インフラへの恒久的導入に向けた重要な実証機会である。大会の真のレガシーはこれらから得られる技術的知見や運用経験にあるとされる。


2)意識改革とコミュニケーション(ソフト面)


ハード面の整備と並行して、人々の意識改革とコミュニケーションの推進も不可欠である。デフリンピックの認知度はパラリンピックに比べて著しく低い。そのため広報活動を積極的に展開し、聴覚障害は「不幸」ではなく、社会の設計による「不便」であるという当事者の視点を広く伝えることを目指している。

デフリンピックでは、選手間のコミュニケーションの中心に国際手話が使用されている。また、技術というハードが、人の行動や意識というソフトを触発する相互作用も注目すべき点である。例えば、透明スクリーン感情字幕やVUEVOは、聴者が相手をより深く理解し、豊かな人間関係を築く手助けをする。このように、ハードとソフトが相互に作用するモデルは、今後あらゆる社会活動に応用可能である。


4 大会が描く未来のレガシー


1)短期的な社会的インパクト

東京2025デフリンピックは、聴覚障害者の社会参加と国際交流を促進する貴重な場となる。聴者とろう者が協働する大会モデルは、共生社会の進んだ姿を国内外に発信する機会である。経済的には、インバウンド消費による大きな波及効果が期待される。

企業にとっては、大会への参加や支援がブランド価値や企業イメージの向上につながり、多様な視点からイノベーションが生まれる。こうした取組は、社会的コストではなく、企業の持続的な成長に不可欠な「戦略的投資」であるという認識を社会に浸透させる。

2)デフリンピックが拓く新たな社会モデル

大会で得られた経験と知見を社会全体に定着させることが、持続可能なレガシー創出には不可欠である。大会で実証されたコミュニケーション技術は、駅や病院、教育現場など、より広範な公共インフラに恒久的に導入されるべきである。これにより、聴覚障害者が直面する情報アクセスの壁を持続的に取り除くことができる。

また、手話言語の普及促進や教育システムへの導入を継続的な政策課題と位置づけることで、次世代が多様なコミュニケーション方法を自然に身につける環境を築く必要がある。デフリンピックが残すべき最も重要なレガシーは、物理的なバリアだけでなく、人々の心のバリアをも解消し、「誰もが、より暮らしやすい」という視点を社会全体に浸透させることである。


5 デフリンピックから生まれる共生社会への希望


聴覚障害者自身が運営するデフリンピックでは、光や旗などの視覚情報が競技の公平性を確保するための不可欠な「基盤」として組み込まれている。これは特定のニーズに応える「配慮」ではなく、誰もが平等に卓越性を追求するための土台であることを意味する。

大会で実証される最新技術は、物理的・心理的バリアの両方を解消する新たな社会モデルを提示する。この大会は、聴覚障害を多様性の一部として可視化し、人々の意識に深い変革を促す。

東京2025デフリンピックは、スポーツイベントを超え、社会のあり方そのものを再構築する可能性を秘めている。この大会は、一人ひとりが「自分らしくいられる社会」への希望であり、次世代に多様性を受け入れる価値観を継承する力となることが期待される。

本稿の執筆にあたり、ご多忙の中での資料案内等に対し、大会運営の関係者の皆様に感謝を申し上げる。

後藤 博

本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。


リンク先は第一生命敬愛研究所というサイトの記事になります。


 

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