「怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらない」 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者・五十嵐 大インタビュー

「怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらない」 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者・五十嵐 大インタビュー

2024.08.13 12:00
文・取材=立花もも、写真=石川真魚


2024年9月公開映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の原作者である五十嵐 大氏

 2024年9月公開映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の原作者である五十嵐 大氏による最新エッセイ『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(紀伊國屋書店)が、8月2日に刊行された。

書籍の表紙「五十嵐 大『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(紀伊國屋書店)」
五十嵐 大『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』(紀伊國屋書店)

 「コーダ」とは、聴こえない/聴こえにくい親のもとで育つ、聴こえる子どものこと。ときに手話を母語とし、ときにヤングケアラーとみなされるコーダは、ろう者とも聴者とも違うアイデンティティをもち、複雑な心を抱えて揺れ動く。

 『「コーダ」のぼくが見る世界』著者の五十嵐 大氏に、本書の執筆に際して意識したことや、ろう者が登場するドラマなどのコンテンツに対する考え方を聞いた。(編集部)

「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて
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コーダの僕だからこそ気づけること、伝えられることがあるかもしれない

インタビューに答える五十嵐 大 氏
五十嵐 大 氏

――コーダ(CODA)とは「Children of Deaf Adults」。ろう者難聴者の親をもちながら自身は聴こえる子どものことだと、本作の冒頭に書かれています。五十嵐さんはこれまでも、ろう者であるご両親や、コーダとしての自分についてエッセイを出版されていますが、今作はとくにどのような意識をもって書かれたのでしょう。

五十嵐大(以下、五十嵐):コーダについて書きませんか、と言われて連載を始めたときは、そもそもコーダとはどういう存在なのか、「あるある」のエピソードをまじえて紹介することで、読者に理解してもらえるといいなと思っていたんです。でも、あたりまえですけど、コーダというのはその人のもつ属性の一つであって、僕が経験してきたことや感じたことが、すべてのコーダに共通しているわけじゃない。「コーダはこういう存在なんですよ」と僕の個人的な体験に基づいて紹介するのはひどく乱暴なことなんじゃないかと考えるようになりました。

――あまり知られていないからこそ、五十嵐さんの語ることを基準に認識する人も多いでしょうからね。

五十嵐:その怖さを、改めて感じました。それでも、僕の体験がコーダであるという属性に紐づいていることは確か。だとしたら、あくまで僕自身が、コーダであるという身を通じて感じたこと、たとえば納得できない、考えなきゃいけないと思っている社会問題について意見を述べることで「みなさんも一緒に考えてみませんか」と投げかけられるような本になったらいいな、とおもったんです。

――手話歌についての章がありました。私も小学校の授業の一環で、当時はやっていたポップスの歌詞を手話で覚えたことがありますが、そこにどんな問題が孕んでいるかを知り、はっとさせられました。

五十嵐:よかれと思ってしていることなので、なかなか問題が気づかれにくいんですよね。僕も、昔は肯定的にとらえていました。それで手話が広まるならいいことだ、って。ろう者が登場するドラマについても同じです。当事者が起用されなくても、まずは存在を認知してもらえるんだから、って。でもろう者の友達に話を聞いたり、SNSの反応をみたりしていると、拒絶反応を示す人が少なからずいる。どうしてなんだろう、と一つひとつ理由を分解していったら、「よかれと思って」の善意で踏みにじられてきたものがあまりに多い、ということに気づかされたんです。

――善意だからこそ、反発をくらったときに、尊重しようとしていたはずの相手に対して怒りが芽生えるってことも、ありますよね。自分も絶対、いろんな場面で誰かを踏みにじってきたのだろうなと、読んでいて怖くなりました。

五十嵐:僕もです。書きながら「お前が言うなよ」って、もうひとりの自分からいつも突きつけられている感じがして、書くのがとても怖かった。でも、なんでそれがだめなのか、どんなふうに当事者を傷つけるのか、コーダの僕だからこそ気づけること、伝えられることがあるかもしれない。その可能性を信じ、だったら書かなきゃいけないな、と思いました。たとえば作中にも書きましたが、聴覚障害者がロープウェイに乗車拒否されてしまったことがあったんですよ。聴こえない人だけで乗せることはできない、と。安全性を担保できない、といわれたら確かにそうだなと思ってしまいがちですが、本当にそうだろうか?ということを突きつめて書いたほうがいいのかもしれない、と。


悔しくてつらい想いをする若い人たちが一人でも減ってほしい

――聴こえないんだからしかたがない、とあたりまえのように諦めさせることの残酷さが、今作を読んでいると痛いほど伝わってきます。そしてそういう現実は、ろう者難聴者の子どもたちに未来を諦めさせることにもつながるんだ、という指摘にもはっとしました。

五十嵐:ろう者を描くドラマや映画で問題になるのは、演じる人たちが当事者ではないということ。その批判を受けると、ほとんどの人が「だって当事者の俳優がいないじゃないか」というんですよね。ろう者の俳優がいないのだからしかたない、いたとしても有名じゃないんだからって。でも、それって、ろう者の責任ではないんです。そもそもこれまでは、ろう者にとって、俳優になる道なんて開かれていなかったのだから。ろう者に限らず、障害のある人たちが、エンタメ業界で表に立つのが難しいという現実がある。そしてその現実は、受容してこなかった社会、つまり健常者と呼ばれる人たちに責任があると僕は思うんです。

――五十嵐さんのお父さまも、本当は天文学者になりたかったのに、大学進学はむりだと反対されてあきらめざるを得なかった、と本書にも書かれていました。

五十嵐:今ほどテクノロジーが発達していなかったとはいえ、はなから無理だと決めつけられて、挑戦すらさせてもらえない。ろう学校の専科に進んで、理容師になるか木工職人になるか、くらいの限られた選択肢しかなかった父のことを思うと、やっぱり、ひどい話だなと思ってしまう。もし現代のように、ノートテイク(手書きまたはパソコンで授業の内容などをリアルタイムで伝えてくれる取り組み)などのサポート体制が大学にもある時代に父が生まれていたら、どんな人生を送っていたのだろうと。しかたないで済ませられ、悔しくてつらい想いをする若い人たちが一人でも減ってほしい。エンタメ業界に限らず、世の中がそういう方向に変わってほしい、と書きながら強く感じました。

――お金がかかるとか、人手がかかるとか、いろんな問題はあると思いますが、小さなところから少しずつ変えていくことはできるはずですもんね。

書籍の表紙「五十嵐 大『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(幻冬舎)」
五十嵐 大『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(幻冬舎)

五十嵐:一朝一夕にうまくいくわけがないことは、僕も分かっているんです。僕が書いた『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』というエッセイが『ぼくが生きてる、ふたつの世界』というタイトルで映画化されて、当事者の方々も出演されることになったのですが、主演の吉沢亮さんはおそらくコーダではないんですよ。そのことを残念だとおっしゃる方々も少なからずいる。

――そういうとき、さすがに主演はしょうがなくない?と思ってしまいそうになることに、本書を読んだあとでは歯止めがかかります。

五十嵐:ありがとうございます。でも、吉沢さんがコーダ役を引き受けてくださって、僕は本当に感謝しています。コーダについて、まだまだ知られていないなかで、人気も知名度も実力もある吉沢さんの力をお借りすることで、コーダという存在がより広く知られるじゃないですか。実際、内容にかかわらず吉沢さんが出演するから観る、というファンの方が、コーダという存在を知って興味をもたれているのをSNSでも見かけますしね。そんなふうに、ちょっとずつコーダのことが理解されていって、世の中がやさしくなっていってくれたらいいなと願っています。


前提を丁寧に説明するところから始めなくちゃいけない

――今作で、書けてよかったと特別に感じるエピソードはありますか?

五十嵐:いちばん最後に書き下ろしで入れた「もしも親が聴こえたら」という章ですね。「もしもご両親の耳が聴こえていたら、何か違っていたと思いますか?」と記者に聞かれた話を書きましたが、その人に限らず、みなさん前提として「聴こえないよりは聴こえたほうがいいでしょう?」と当たり前に思っているんです。でも僕は、本当に、親の耳は聴こえなくてもいい、むしろ今は、聴こえない親がいいと思っていて。その気持ちをうまく言語化することが長らくできなかったのですが、今回書いたことで、ようやく自分でも納得ができた気がします。

――五十嵐さんがつらかったのは、まわりから「お前の母親は変だ」と言われたり、おばあさんに「手話なんて必要ない」と言われて学ぶことをとりあげられたり、両親が他者とコミュニケーションをとるときに役に立てなかったりしたことであって、ご両親が聴こえないことそのものではないですよね。

五十嵐:そうなんです。聴こえないこと自体は僕にとってあたりまえのことだから、別にいいんです。実際、小学校にあがる前の、家庭内だけで世界が完結していたときは、とても幸せだったわけだし。それよりも、社会に出たときに生まれる誤解や偏見のほうがしんどかった。それがなかったらたぶん、今もこんなに悩んでいません。

――よく「子どもがかわいそう」って言う人がいるじゃないですか。「こんなお母さんをもつなんて」「そんな状況で産むなんて」と。あれを聞いて「その子をかわいそうに仕立て上げているのはあなたたちでは?」と思うことがあります。

五十嵐:たとえば、アダルト業界の方が出産したときに「母親の職業を知られたらいじめられる」とかいわれますよね。そんなの、いじめるほうが悪いのに、なぜ産むな、結婚するなという方向にいくのか僕もわからないんです。親の属性によって子どもがいじめられるような環境をなくせばいい。先程の話ともつながりますが、ろう者だけでは危険だからロープウェイに乗せない、とするのではなく、どうしたらろう者だけでも安全に乗車できるのかを考えれば、きっと全員が幸せになれるのに。親に障害があると子どもに負担がかかるかもしれない、だったらそうならないようにその子をサポートする仕組みを整えればいいのに、なぜ抑圧する方向に話を持っていくんだろうと思います。

――五十嵐さんはSNSでも頻繁にそうした話題について発信しているじゃないですか。SNSではどうしても理解されない細部を、丁寧に今作では説明していたと思うのですが、声を届けるために意識していたことってありますか?

五十嵐:怒りや傷つきをそのまま表明しても伝わらないんだなということは、SNSでいっぱい喧嘩して、痛感したことで(笑)。言い方を考えないと、伝わらないどころか、かえって反発も生みかねないんですよね。悲しいことに、真摯に理解しようと耳を傾けてくれる人ばかりじゃないから「やっぱりマイノリティってめんどくさいな。関わるのをやめよう」みたいに結論づけてしまう人もたくさん見てきました。分断が生まれる瞬間を何度もまのあたりにしてきたからこそ、まず僕たちの前提を丁寧に説明するところから始めなくちゃいけないな、と思います。

――たとえば映画でも、日本語字幕では不十分なのだという話は、作中で引用されるろう者の方が書いた文章を見ればすぐに理解できます。でもほとんどの人は、同じ日本語とはいえ習得の仕方や使い方がこんなにもちがうのだ、ということを知らないから、なかなか想像しにくいですよね。

五十嵐:強い怒りを表明することで突破できるものもあるから、それもまた必要なことですけど、僕がやるべきことはそれじゃないかな、と連載を通じて感じました。マイノリティの主張って意味わからんとか、めんどくせーとか思っている人たちに、少しでも耳を傾けてもらって一緒に考えるための糸口を見つけるのが僕の仕事なのかもしれない、と。そのためにはSNSの短い文章では不十分なんだな、と気づいたので、今後はあまりやらないようにしようと反省しています。言いたいことは、本で書こうと。

どうすればよりよい方向に向かっていくのか、みんなで一緒に考えたい

笑顔で答える五十嵐氏

――コーダについて語る当事者が多くはないので、映画化されたことも含めて、以前より責任を感じるところも増えてきたのではと思うのですが。

五十嵐:それが最初にお話しした怖さにもつながっていて。どうしても代弁者のように扱われてしまう場面が増えてしまうけど、あくまで僕個人の一例でしかないのだということは、くりかえし言っておきたいと思います。自分は全然ちがうよって人がいたら、そういう声もどんどん世の中に自由に発信されたらいいな、と思いますし。あとは、あくまで僕はコーダであって、ろう者難聴者ではないから、当事者の声を聞く機会も、もっと増えてくれたらと思います。

――この本が、多くの人が意識を向ける一助になることを願っています。

五十嵐:そうですね。ろう者も難聴者も自分には関係ないって思っている人にこそ読んでほしい。コーダなんて身近にいないよ、って言う人もいるけど、見えていないだけなんですよ。聴覚に限らず障害のある人たちが特別な存在になってしまっているのは、エンタメのせいもあるよなあ、と思います。映画でも小説でも、障害者やマイノリティが登場するときは、たいてい意味を求められるんですよね。

――ちゃんと知らないのに描いちゃいけない、という意識もあると思いますが、ただ登場するだけだと「いらない設定」とか言われることもありますよね。設定のために存在しているわけではないのに。

五十嵐:そうなんです。マイノリティが登場することに、けっきょくなんの意味もなかった、と言われると、他人をすかっとさせる伏線のために生きてないよと思っちゃう。海外のドラマや映画なんかを観ると、主人公の友人や知人として障害者がさり気なく出てくることがある。でも、物語上、過剰な意味が込められていなかったりもする。ただ、あたりまえに存在しているだけなんです。日本のエンタメにおいても、マイノリティがそういうふうに描かれていくようになったら、「自分の周りにはいないのではなくて、見えていなかっただけかも」と考える人が増えていくんじゃないかなと思います。

――だからこそまず「知る」ことが必要なんだなとこの本を読んで思いました。

五十嵐:知らないということは、その気がなくても抑圧することに繋がりますからね。視界に入っていないくらいならまあしょうがないかなと思うけど、点字ブロックの上でずっと立って道を阻んでいるとしたら、それは妨害行為になってしまう。そうやって無自覚に誰かを傷つけたり、加害したりしないためにも、「知る」ことが大事なんだなと、自戒を込めていつも考えています。

――前提として五十嵐さんには「自分もろう者のことを理解しきっているわけじゃない」というスタンスがあるじゃないですか。ご自身も迷いながら、失敗したり誰かを傷つけたりをくりかえしながら、前進していこうという姿に、読んでいて「私も」という気持ちにさせられます。

五十嵐:自分は完璧に理解していますよ、ちゃんとわかっていますよ、とためらいもなく言う人ほど、上から目線だったりするんですよね。それはそれで怖いし、僕はそうなりたくなくて。やっぱり、自分は間違っているかもしれないと常に自問自答して、確かめながら進んでいきたいんです。そもそもこの本に書いた問題も、簡単に答えが出せないものばかり。考えて、考えて、ちょっとわかったつもりになって、それでもやっぱりわからない、ということの繰り返しで、やっと書き上げました。でも、そもそもどう考えていいかわからない、という人もいるだろうから、僕の思考過程を見せることでとっかかりになれたらなと思います。そのうえで、この社会がどうすればよりよい方向に向かっていくのか、みんなで一緒に考えたい。その想いを大事に、これからも僕なりに見える景色を書いていこうと思います。


■書籍情報
『「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて』
著者:五十嵐 大
価格:1760円
発売日:2024年8月2日
出版社:紀伊國屋書店
Amazonで詳細をみる


立花もものイラスト

立花もも
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no+e
1984年、愛知県生まれ。ライター。ダ・ヴィンチ編集部勤務を経て、フリーランスに。文芸・エンタメを中心に執筆。橘もも名義で小説執筆も行う。代表作に『忍者だけど、OLやってます』シリーズ、ノベライズに『透明なゆりかご』『小説 空挺ドラゴンズ』など。

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石川真魚のイラスト
石川真魚
2年半スタジオマン 4年間専属アシスタント(カメラマン・横山こうじ氏を師事)
28才からフリーカメラマン

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