朝野幸一: 作家
2026年7月28日 17:00

写真はイメージです Photo:PIXTA
文字を手書きすることに強い困難がある「書き障害」をもつ作家・朝野幸一氏。朝野氏は、自身の生きづらさについて考える中で、自身の行動や感覚にも向き合ってきた。授業中に本を読む、鼻歌を歌う、同じ持ち物を手放せない。周囲からは理解されにくい行動の裏側には、本人なりの切実な理由があるという。14歳の当事者が、自らの感覚世界を明かす。※本稿は、作家の朝野幸一『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
ひどく動揺した場合の
2つのリカバリー手段
少数派でいることの辛さはADHDやASDなどの発達障害からくるものもある。私が感じていることをどうにか論理的に記述するために、かなり荒削りではあるが、ある仮説を唱えてみたい。
それは、「自分がわからないこと・自分にはどうしようもできないことを回避するための行動や、自分を落ち着かせるルーティンが、多動などの様々な症状として現れているのではないか?」というものだ。私の場合は「予測できない事象」や「不安・不快な状態」への対応が大の苦手で、自分の予測が外れるとひどく動揺する。その時のリカバリー手段として、
(1)何かに注意の対象を移す
(2)何かの行動を加えて、その不安・不快な状態を快適なものにしようとする
という2つの方法を取る。
何もしないで座っていたり、何年も前から知っていることを先生が説明しているのを聞いているのは「何もしていない」状態に近い。イコール、不安だ。今回はこのシチュエーションを例に説明する。
まず、(1)の例。この場合は、本を読むなり、立ち歩くなり、ひとまずの安息を手に入れようとする。つまり、主観的に直接観測される周囲の音(ノイズ)が自分のコントロールできない状況下にあることに対して不安を覚えるので、回避行動で別のところに注意の対象を移すのだ。
ストレスを生み出す雑音は
完全にはコントロールできない
私は特に聴覚過敏がひどいらしい。ジョン・ケージの有名な楽曲の作曲経緯で知られるように、人間はおよそ無音という状況に置かれることはない(編集部注/ケージは、1951年、ハーバード大学の無響室で自分の体内音を聞いたことから、「完全な無音は存在しない」と考えた。この体験をベースとして、翌年、演奏者が音を出さない『4分33秒』を発表した)。
これを紛らわすために私は多くの対策を講じてきた。ストレスを生み出す周囲の雑音は自分で完全にはコントロールできない。むしろ、ストレスを軽減するためには自らの聴覚をコントロールする方法を見つければ良い。
そこで、(2)として何らかの作業をしながらヘッドホン、イヤホンで音楽(この音楽にも不確実性は含まれないことが望ましい)を聞くと、周囲のコントロール不可能な雑音をコントロール可能な音楽でマスキングする形になり、雑音は全体的に鳴りを潜める。結果としてストレスの排除が可能になり、より作業がしやすくなるのである。
しかし、そのようなインプットができない状況では、自分の記憶の中にある音楽に頼らざるを得なくなる。それだけでは心細いので、鼻歌でその曲を再現することになる(自己から発している音であり、コントロール可能なので不安の原因にはならない)。疲れがたまりすぎた時、授業中であったとしても私はこの「聴覚自己入力」を行うのだが、その結果、ほぼ必ず10分おきに教師から怒られる羽目になる(理屈を知らなければほとんど理解不能な行動である)ので、あまり賢い解決策ではないし、(少なくとも教室では)おすすめもできない。いうなれば最終手段である。
一見無意味な行動にも
意図や意味が潜んでいる
これらすべての総括として私が言いたいのは、我々の一見無意味な行動にも、意図や意味などが潜んでいる可能性が十分にあり、それをするに値する十分な合理性が、その人にとってはあるということである。であるから、頭ごなしにその行動や思考回路を否定せずに、その人の立場に立って、行動からその意味や、その行動に至る合理性を見つけ出し、その他の人にとっての合理性との折り合いをつけて、できるだけ大多数が幸せになれる社会の構築や配慮を心掛けることが大切である。
そのためには、どのような行動原理に基づいて我々が行動するのか、という点について議論する必要があるだろう。それは「安心」とか、「自らが満たされた状態」、「そうあって欲しい状態」などを含む、「合理的な世界」の実現であるのだと思う。我々にとって幸せな状態とは、「安心できる状態」であると仮定すると、そのために必要な要素は、「周囲の安定性・予測可能性」であり、その実現のためにはできるだけ周囲が安定的で、動きの少ない平和な状態の維持が求められる。
もちろん、適度な刺激、またの名を「Getting out of my comfort zone(快適ではない状態に自らを置く)」は成長のために必要な要素である。であるから、必要なときには必要なだけこのセオリーを破る必要があるだろう。
帽子、カバン、腕時計…
自分にとっての「安心」とは?
これを踏まえて、私の行動を説明してみよう。
たとえば、私が手持ち無沙汰になって爪を噛んでいるとしよう(実際に私は爪をよく噛む)。これはコントロール可能な感覚の例で、爪を噛むという自己刺激運動によって感覚の中における触覚の割合がより多く割り当てられ、他のセンサー(聴覚など)に割り当てられるエネルギーが減るために、一時的に聴覚過敏が改善される。
同じく、読書は聴覚過敏から逃げる良い方法だ。視覚はもともと感覚の中で大きな割合を占めているそうだから変な話でもない。本を読むと視覚が全体の内でさらに大きな割合を占めることにより、聴覚への情報量が少なくなり、聴覚過敏をほぼノイズキャンセリングヘッドホンをつけているのと同じレベルにまで改善できる。
『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』(朝野幸一、新潮社)
ただ、問題は視覚に感覚が集中しすぎて、話しかけられたり、先生が肝心なことを話したりしていても聞こえなくなってしまうことである。傍から見ればさぞ行儀の悪いことだろう。授業中に堂々と本を読み、指示も授業も聞かない。これが行儀の良いわけがない。しかし、聴覚過敏その他モロモロの事情で疲れ切った私には、これしか一日を乗り切るすべがない時もあるのだ。
先ほど述べた通り、私はできるだけ生活を、世界をコントロールしようとする。たとえば、周りの物事の再現性を上げると安心する。いつもと違うものに対する動揺を削減できるからだ。
たとえば、お気に入りの帽子をかぶっていると何となく落ち着く。頭にお気に入りの帽子がフィットする感じや、つばによって光が遮られて、目に対していつも同じような光の入り具合になるところなど、再現性が高いからかもしれない。自分が気に入っていて機能性の高いもの(機能性のないものを持ち歩くのは非合理的だからしない)、たとえばカバンや腕時計など、同じものを常に身につけている理由も似たようなものだ。
そこに目をやれば、そこにある。いつも同じ。私にとってはこれが「安心」というわけだ。
記事のポイント!
授業中の鼻歌や読書、爪を噛むこと、同じ持ち物を使い続けることは、聴覚過敏によるストレスを和らげ、予測できない環境の中で安心を得るための行動だと当事者が説明しています。一見無意味に見える行動にも本人なりの合理性があることを知り、頭ごなしに否定せず、その背景を理解する大切さを伝える記事です。
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