2026.06.11
文:Pen編集部
音のある世界と音のない世界――。その狭間に立つからこそ見える景色がある。難聴という自身の経験を起点に、人間の知覚やコミュニケーションのあり方を問い続けるアーティスト・中村馨章(よしあき)による個展『Cyborg Butterfly: Threshold』が、ホワイトストーンギャラリー銀座新館で開催中だ。

妖艶な雰囲気を纏った蝶の絵画には、骨伝導スピーカーが内蔵されている。作品は単に鑑賞するだけでなく、触れたり、振動や音を感じたりと、身体感覚を通して体験できる。
蝶が導いた“知覚”への問い
聴覚や視覚といった知覚の境界を探求し、それをアートとして表現するアーティストがいる。その名も中村馨章。幼少期に感音性難聴を発症し、2000年には聴力を失った中村は、その後人工内耳を装用。音のない世界から再び音のある世界へと踏み込んだ経験を通じて、人間の知覚やコミュニケーションの本質について問い続けてきた。その探求は作品へと昇華され、自己と他者の新たな対話の可能性を探る表現へと結実している。
同ギャラリーでの個展は今回で4回目。本展では「Cyborg Butterfly(サイボーグ・バタフライ)」と「Threshold(閾値)」というふたつのテーマを軸に、人間とテクノロジー、音のある世界とない世界、その間に存在する“境界”について問いかける。
会場に足を踏み入れるとまず目を引くのが、大きく羽を広げた蝶の作品だ。蝶は中村が活動初期から一貫してモチーフとして用いてきた存在であり、アーティストとしての原点ともいえる重要なシンボルだという。生と死、天国と地獄といった二項対立のいずれにも属さない蝶の姿に、自身の存在を重ね合わせてきた。
さらに中村は、難聴によって音の情報が限られていた時期に、蝶から“凄まじい音”を感じたという原体験を持つ。しかし実際には、蝶の羽ばたきはほとんど音を発しない。その経験は、自身が感じる世界と他者が感じる世界とのあいだに存在する見えない境界を意識するきっかけとなった。そしてその問いは、「知覚とは何か」という探究へと発展し、今日の創作活動の根幹を成している。

真っ白な空間に浮かび上がるように展示されたピンク色の蝶の作品。中村にとって音は色として知覚されることがあり、なかでもピンクは象徴的な色のひとつだという。また、蝶の胴体と羽をあえて分節して表現することで、本展のテーマでもある「境界」の存在を示唆している。
触れることで完成するアート体験
一見すると蝶を描いた絵画作品に見えるが、その内部には骨伝導スピーカーが組み込まれており、作品に触れることで振動や音を感じ取ることができる。観るだけでは終わらない、知覚を通じた鑑賞体験こそが本展の真骨頂だ。鑑賞者は作品を眺めるだけでなく、自ら触れ、耳を澄ませることで、その世界の一部となっていく。
この試みについて中村は次のように語る。
「重要なのは、その振動を感じているのが作品に触れている本人だけだということです。来場者は同じ作品を見て、音を感じているようでいて、実際には体験している内容が異なります。そこには体験者と非体験者の間に境界が存在しています。この展示を通して、音のある世界とない世界、そして私たちを取り巻くさまざまな境界について考えてもらえたらうれしいです」

作品にはカーボンファイバーシートと銅線が組み込まれている。その複雑な構造は高度な技術表現であるだけでなく、人間とテクノロジーの境界を可視化する装置としても機能する。すべてを人工的なシステムで補完しようとする現代社会に対する問いかけであり、テクノロジーの恩恵と脆さを同時に浮かび上がらせている。

人間の痕跡を想起させる手描きではなく、あえてエアブラシによる均質な表現を採用。そこには、人の温もりと機械的な無機質さの境界を問いかける中村の思想が表れている。
知覚の境界を問い直す体験型アート
さらに2階展示室では、1階で体験した作品世界を別の角度から読み解くインスタレーションも展開。音や振動といった目に見えない現象を可視化し、本展のテーマである「知覚の境界」をより立体的に理解できる構成となっている。
作品を「観る」だけでなく、「触れ」、「聞き」、身体を通じて体験することで初めて完成する展示だ。絵画に触れられる展示自体は世界にも存在するが、触れることそのものを作品体験の中心に据えた例は決して多くない。
サイボーグと人間、音のある世界とない世界、体験者と非体験者――。そのあいだに存在する境界を見つめ直す本展『Cyborg Butterfly: Threshold』は、私たちが当たり前だと思っている「知覚」そのものを問い直す機会を与えてくれる。

中村馨章(なかむらよしあき)・東京都生まれ。東京藝術大学大学院博士後期課程、米国メリーランド・インスティテュート・カレッジ・オブ・アート大学院修了。人工内耳装用による知覚の変化を起点に、人間の感覚やコミュニケーションの境界をテーマとした作品を発表している。
記事のポイント!
幼少期の感音性難聴や人工内耳装用による知覚の変化を創作の出発点にした、中村馨章さんの個展を紹介する記事です。蝶をモチーフにした作品には骨伝導スピーカーが組み込まれ、鑑賞者は作品に触れながら振動や音を体感できます。音のある世界と音のない世界、体験する人としない人の間にある境界を、アートを通じて考えさせる内容です。
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