2025年10月12日 12時00分
共同通信

「マーク・オブ・ア・ウーマン」の舞台に立つ南村千里。プロジェクターの画像も使いながら物語を紡ぐ=英南部ボーンマス(撮影・MARK PICKTHALL、提供写真)
逆境を乗り越えて活躍 最新技術が感覚を補助
2025年3月、英国南部のリゾート地ブライトン。ジミ・ヘンドリックス、エルトン・ジョンなど多くの伝説的ミュージシャンたちも公演した伝統あるホールの小劇場で、開演を待つ観客らがグラスを片手に談笑していた。英国の劇場ではよくある風景だが、手話で会話をしている人が多い。
観客の目当ては、ロンドンを拠点に世界中で活躍するパフォーマンスアーティスト、南村千里(みなみむら・ちさと)。約1時間の舞台を終えると南村は目を大きく見開き、満足げに客席を見渡した。客席を埋めた老若男女が大きな拍手を送る。だが、その音は彼女には聞こえていない。
▽0歳で聴覚喪失
南村は生後7カ月の時、聴覚をほぼ完全に失った。原因は当時かかった髄膜炎の後遺症か、その治療薬の副作用とみられる。当然ながら、耳が聞こえていた頃の記憶はない。
100デシベル以上の音しか聞こえないという難聴の度合いは、最も重度に分類される。耳元で大声を出して、ようやくそこに音があることが認識できる程度だ。
徳島市で生まれ、東京で育った南村は美術大学で日本画を専攻した後、奨学金を得て英国に留学した。そこで障害者と健常者が共に活動するダンスカンパニーに参加したのがきっかけで、舞台表現の世界にのめり込んでいく。
「踊りは自分とは無関係だと思っていたが、表現が2次元から3次元に広がり、はまった」と振り返る。3年ほど別のカンパニーに在籍した後、2007年に独立した。長年、現代舞踊のジャンルで活動してきたが、50歳を過ぎた現在は、より演劇的な表現を持ち味とする。

▽「視覚的音楽」
ブライトンで上演したのは、新作「マーク・オブ・ア・ウーマン」(女の印)。女性の入れ墨がテーマだ。コロナ禍のロンドンで舞台活動が中止を強いられていた際、大英博物館に通い、収蔵されていた入れ墨の標本を見たことに着想を得たという。
チャーチル元英首相の母親をはじめ、英国上流階級の女性の間でひそかに流行していたとの説や、明治時代に日本政府が禁止するまで沖縄の伝統文化だった「ハジチ」など、これまで存在したさまざまな女性の入れ墨の歴史を振り返る。
客席には、耳が聞こえなくても音を体感できるベルト状の装置が配られた。効果音や南村が踏むステップに合わせて正確に振動を伝える最新技術だ。
終盤ではがんで乳房を切除した女性が、平らになった胸部にタトゥーを入れたことで自分の外見に対する自信を取り戻す話が語られる。日本ではタブー視されることの多い入れ墨だが、南村が全身で表現する物語は、そうした忌避感を忘れさせ、新たな視点を与えてくれる。
南村は自身の表現を「視覚的音楽」だと語る。友人と劇場を訪れた20代のミカ・トンプソンは「普段あまり舞台は見ないが、本当に楽しめた。振動が伝わることで、より集中することができた」と目を輝かせた。
ロンドンでこの作品を鑑賞した劇作家のナターシャ・サットンウィリアムズ(36)は「南村は表情と体の動きで万華鏡のように多彩な感情を表現することができる。自分も聴覚障害のある俳優と仕事をすることが多いが、彼女のようにソロで活動するアーティストはほかに知らない」と評価する。

英国・ブライトン
▽対話への渇望
南村はこのほか、広島と長崎の原爆投下を生き抜いた聴覚障害者たちの体験を舞台化した作品も2019年から上演している。公演で訪れた国はオーストラリア、カナダ、韓国、チュニジアなど、世界中の地域をまたぐ。
創作の傍ら、大英博物館で聴覚障害者向けの手話ガイドとしても活動する。次の作品は地球温暖化を取り上げたいと考えているという。「聞こえない人」の視点を入れることで、新しいものを作れる予感があるからだ。
手話は英国と米国でも異なるほど細分化されているが、行く先々でその国の手話を覚えるのが特技だ。そんな南村に、東京で暮らす母親の洋子(ひろこ)(80)は他者との対話への渇望を感じ取る。
「聞こえないこともあり、小さい頃から人とコミュニケーションしたいという欲求は余計に強かった。ダンスに出会ったとき、音声言語がなくても対話ができると気付いたんです」と洋子は回想する。「初めて舞台を見たとき、生き生きとしていて、自分を表現する場を見つけられて本当によかったと思いました」
英国人の夫も聴覚障害者。人工内耳の手術を受けており、南村にも勧める。音を電気信号に変え、脳に伝える技術だが、興味はないという。手術で得られる効果が人によってばらつきが大きいこともあるが、聞こえないことも含めてそれが自分だからだ。
「もともと五感は人それぞれ同じではない。自分はほかの感覚で〝聞く〟ことができる。アートというのはそれを可能にするものなんです」
【取材メモ/想像すること】
取材は初め手話通訳を介し、その後は主に口話と呼ばれる方法で行われた。口の動きを読み取り、自らも訓練によって身に付けた発声である程度の会話ができる。
「いま何が聞こえますか」「メロディーってどういうものですか」。時折、逆にそんな質問をする南村さんは好奇心いっぱいの子どものような目をしていた。人によって答えが違うのが面白いのだという。
世界中で分断が深まる今日、異なる状況にある相手のことを想像する重要さを改めて思った。
(敬称略、文は共同通信経済部記者・井手壮平=年齢や肩書は2025年6月18日に新聞用に出稿した当時のものです)
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