発達障害グレーゾーン 「僕は病気なの?」 病名つかず悩み続ける

発達障害グレーゾーン 「僕は病気なの?」 病名つかず悩み続ける

2025/01/02
ライフ | くらし

発達障害の診断がつかないグレーゾーンの悩みは深い(写真はイメージ)=ゲッティ
発達障害の診断がつかないグレーゾーンの悩みは深い(写真はイメージ)=ゲッティ


 埼玉県在住のHさんは、スラッと背の高い好青年です。大学時代から販売員としてアルバイトをしていたスポーツブランドのショップで現在も働いています。誰が見ても「特に悩みはなさそう」と思うかもしれませんが、彼には長年の悩みがありました。「僕はなんの病気なのでしょうか。精神科に通っても診断名がつかず、発達障害のグレーゾーンのまま生きているのです」。


幼少期の予兆、突然の息苦しさ


 Hさんの不安との戦いは、幼稚園時代にさかのぼります。彼のお母さんがその記憶をたどりながら語ります。

 「出産も順調で健康な赤ちゃんだったのですが、年長の1月ごろに急に息ができないような症状が出始めました。心臓がバクバクするとか苦しいとか言うので、過呼吸のようだとは当時分からず、『どうしたの?』と落ち着かせることしかできませんでした。30分ほどおんぶしたり、ベランダで深呼吸させたりといろいろ試しました」

 年長クラスの終わりごろから、Hさんは幼稚園に行きたがらなくなりました。理由を聞くと「バスの匂いが嫌だ」とか「疲れたから嫌だ」などを挙げましたが、具体的な原因がわからず、卒園式や小学校の入学式でもお母さんのそばから離れられませんでした。

 小学校入学を控えた3月、Hさんの発作は1日に3~4回に増え、さすがにお母さんも心配になって小児科に連れて行き、大きな病院の精神科を紹介されました。

 「過呼吸に効く薬を処方され、必要な時だけ飲ませました。特に薬に頼らずとも落ち着くことがあったので、薬はあくまで『お守り』のような存在でした。はっきりした病名も分からないまま薬を飲ませることの意義が私には分かりませんでした」

 その後もいくつかの病院を受診しましたが、これといった診断はつかず、お母さんは月に1度主治医と面談を続けました。精神科に通い続けることが解決策なのかどうかも分からないまま、なんとなく過ごしていました。

幼稚園や学校に行き渋ることも(写真はイメージ)=ゲッティ
幼稚園や学校に行き渋ることも(写真はイメージ)=ゲッティ


小学校時代「このままやり過ごせれば」

 小学校に入学すると、担任の先生の厳しさも相まって、Hさんは授業中に「苦しい」と言って家に帰ることが増えました。学校側もHさんの行動を問題視し、頻繁にお母さんが呼び出されることもありましたが、主治医からは「学校に行けている限り、なるべく通わせるべきです」と言われ、なんとか通学を続けました。

 「2年生で担任が変わると状況は改善し、通院もやめました。ただ、時折『学校に行きたくない』と訴え、不登校になるのではと心配したこともあります。でも、ギリギリのところで何とか卒業することができました」とお母さんは振り返ります。

 驚いたことに、小学校時代のHさんは友達を誘ってサッカーをするなど、自分から計画を立てて遊びに出かけることもありました。お母さんは、「これでこのままやり過ごせるかもしれない」といちるの希望を抱いていました。


「笑顔恐怖症」 再び襲う不安と苦悩


 中学2年生ごろから再び症状が強く表れ始めました。Hさん自身が当時の記憶を鮮明に語ります。「突然わーっと冷や汗が出て息苦しくなりました。私立の高校受験に挑戦して合格しましたが、ずっと死にたい気持ちが消えなかったんです。何に悩んでいたのか、自分でも分からない。ただ、笑顔恐怖症というか、クラスメートが面白いことをした時に『笑わなきゃ』と思ってしまい、顔がこわばることが多かったですね。周囲が僕の緊張を察して『えっ?』という表情をするのがつらかった」

 Hさんは他人との関わり方に悩み続けていたものの、家族の中では問題を抱えていないように見えることが多かったのです。「僕は昔から家族に気を使うタイプで、反抗期もなく、親とケンカになったこともありません。特に父親は無駄なことは話さない人で、怒らせないように気を使い続けました。幼い頃から我慢したり、周囲の空気を読んだりする癖が染み付いていたのかもしれません」

 それでもHさんは内向的な性格ではなく、服を買いに一人で出かけたり、登校も何とか続けたりしていました。こうした行動にお母さんは期待を抱きつつも、どこか不安を拭えない日々が続いていました。


劣等感、なぜ不安なのか分からない


人との関わり方に悩み続けた中高生時代(写真はイメージ)=ゲッティ
人との関わり方に悩み続けた中高生時代(写真はイメージ)=ゲッティ

 高校生になると、Hさんの不安感はさらに増大しました。「劣等感が常にあり、みんなから『可愛い』とか『カッコいい』と言われても、自分では空虚感しかありませんでした。自分がみんなの期待に応えられていないと感じて、ダサい自分を否定していました。高2の時には特に死にたい気持ちが強く、通学途中に線路をじっと見つめてしまったこともあります」

 Hさんは自分の悩みを家族や友人に打ち明けられず、孤独を感じ続けていました。

 「誰にも言えず、一人で膝を抱えてもんもんとしていました。自分がかっこよくないと感じるたびに、どうしようもなく自己嫌悪に陥り、ダサい自分を消したくなりました」

 一見すると、背が高くて友人にも恵まれた「普通の高校生」だったHさんでしたが、心の中は常に不安にさいなまれていました。「毎朝、学校に行く途中で緊張し、教室に着く頃には心が締め付けられるような感じでした。不安の理由が分からず、自分でもどうしてこんなに苦しいのか説明できません」


「いつもと違うこと」への苦手意識続く


 Hさんは高校卒業後、大学に進学しましたが、「いつもと違うこと」が起こるたびに不安感に襲われました。大学1年生の時に寮に入りましたが、ここでも困難が立ちはだかります。

 「新しい場面や新しいところが苦手で、慣れるまでに時間がかかります。決まったルーティン以外のことは対応しにくいので、遅刻は絶対にしません。出かける時は周到に準備しますし、朝は何時間も前から用意したりします。こうしてここに行くと決まっていると安心します。こうしたところは発達障害だからなのかなと思います」

 2年生になると、アパートでの1人暮らしを始めましたが、しばらくしてから大学に行けなくなりました。

 「授業が全く面白く感じられず、教室に足を運ぶことができなくなりました。その時、ちょうどコロナの影響でオンライン授業が増えていたので、何とか実家から通い続けることができました」

 お母さんは、「また症状が出てしまったのね」と思いつつも、見守りました。その頃、Hさんは大好きだったスポーツブランドのショップで店員のアルバイトを始めました。

 大学2年の秋頃、Hさんは授業に通えなくなってしまいました。「特に理由は思いつかないのですが、教室に足を踏み入れるのが怖くて、心が締め付けられるような不安に襲われるようになりました。コロナ禍でオンライン授業が開始されたことで、何とか実家から授業を受けることができたのが救いでした。でも、春学期が終わるとオンライン授業も終了し、再び教室に通わなければならなくなりました。」

 お母さんはその頃を振り返り、「息子がまた学校に行けなくなるのではと心配しました。実家に戻り、通学するのもまた大変そうでしたが、彼のペースに合わせて見守るしかありませんでした」と語ります。

 大学時代にHさんが始めたのは、好きなスポーツブランドの直営ショップでのアルバイトでした。「高校生の頃からそのブランドにひかれていて、インスタグラムで広告を見て憧れました。最初は飲食店でアルバイトをしていましたが、やはり自分が好きなブランドで働きたいと思い、店舗のバイトに応募しました」


接客は苦痛ではないが、職場では


対人関係を巡って、いくつになっても悩みがつきない(写真はイメージ)=ゲッティ
対人関係を巡って、いくつになっても悩みがつきない(写真はイメージ)=ゲッティ

 Hさんは、接客業を選んだ理由について「そのブランドが好きだったから」と説明します。「接客が好きというよりも、ブランドそのものが好きだったんです。接客が楽しいかと言われると、実はそうでもありません。知らない人と話すことは苦痛ではないのですが、職場の同僚との関係は正直苦手です。何度も顔を合わせることや、飲み会に誘われるのがつらいんです」

 職場の人間関係について、Hさんは「みんな気軽に飲み会や食事に誘ってくれますが、誘われるたびに緊張します。飲み会ではどんな料理が出てくるのか、誰が隣に座るのか、何時に終わるのか、早く帰りたくなった時にどうすればいいのか、細かいことをあれこれ考えてしまいます。結局、ほとんどの誘いを断ることになり、それが原因で関係が悪くなるのではないかと不安になります」と語ります。


「HSPかもしれない」と考え始める


 Hさんは、自分の悩みについて「なんとか解決策を見つけたい」と思い、一度精神科の診察を受けました。結果として発達障害の診断はつかず、「グレーゾーン」のままということになりました。

 「いくつかの発達障害の特徴を持っていると言われましたが、全体的な診断基準には当てはまらないということで、正式な診断は受けられませんでした。そこで、自分でもいろいろ調べていくうちに、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)の特徴に自分が当てはまるのではないかと思うようになりました」

 HSPは病名ではなく、感受性が非常に高く、生きづらさを感じやすい人々を指します。Hさんはしばらく、SNSでHSPのコミュニティーと交流をしてみました。

 「ツイッター(現X)でHSPの人たちの話を聞いていると、『僕たちはこういう性格だから理解されない』という諦めムードが強くて、それ以上の話が発展しないんです。自分の持論を語る人が多く、あまり面白く感じられなくなってしまいました」


都内直営店へ異動、新たな環境の大変さ


 東京都内の直営店で働くことを夢見ていたHさんは、ある日、店舗の店長に「○○店で働いてみたい」と軽く伝えたことがきっかけで希望の店舗に異動することができました。

 「憧れていた店舗に勤務できるようになったことはうれしかったのですが、新しい環境に適応するのは予想以上に大変でした。埼玉の店舗とは雰囲気がまるで違っていて、都内の店は若いスタッフが多く、仲が非常に良いんです。昼休みもみんなで一緒に食事をするし、仕事後には飲み会にも出かけます」

 一見して華やかで楽しい職場に見えるかもしれませんが、Hさんにとってはそれが苦痛でした。「一人の時間が取れないので、どうしても窮屈に感じてしまいます。みんなが仲良くしているのを見ると、自分だけがその輪に入れず疎外感を覚えることがあります」

 ある日、Hさんは意を決して、職場の女性の先輩に自身の気持ちを打ち明けました。その先輩はちょっとコワモテな見た目で、言葉が少しきつく感じられるタイプでした。

 「彼女に何か言われるたび、僕は緊張してしまい、うまく言葉が出てこなかったんです。ある日、そのことを打ち明けると『あ、そうだったんだ。気をつけるね』とあっさり返されて拍子抜けしました。でも、それを伝えることで少し気持ちが楽になったのを覚えています」


「私がいないと息子は…」 母の苦悩


発達障害の診断がつかないグレーゾーンの悩みとは(写真はイメージ)=ゲッティ
発達障害の診断がつかないグレーゾーンの悩みとは(写真はイメージ)=ゲッティ

 お母さんは、Hさんの問題についてこう語ります。「私がいなければ息子は生きていけないのではないかと思うことが多々あります。Hは私が一番話しやすいようで、何でも私に相談してきます。そのことで気持ちが整理されるのでしょうが、どこまで彼に寄り添えばいいのか悩むこともあります。彼が社会生活でうまくやっていけるなら良いのですが」


「グレーゾーンは症状軽い」という誤解


 Hさん自身も、自分が抱える不安や生きづらさをどのように説明すればよいのか悩んでいます。

 「『発達障害』とか『HSP』と言って、それで理解してもらえたらどれだけ楽かと思います。でも僕の場合、説明するには生い立ちから話す必要があって、そんなことは普通できません。診断がつかないからこそ、このグレーゾーンの状態で苦しむのが一番つらいんです」

 お母さんは、グレーゾーンであることが軽視されがちな現状に疑問を抱いています。

 「『グレーゾーンだから症状が軽い』と思われることも多く、その認識が誤解を生むことが多いです。同じ悩みを抱える人たちが集まれる場があれば良いと思いますが、情報が少なく、参加したこともありません」(取材・文/渡辺陽)


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