「障害を生む環境なくす」デフリンピックを応援、デフサッカー前代表監督・植松隼人さん

「障害を生む環境なくす」デフリンピックを応援、デフサッカー前代表監督・植松隼人さん

2025/1/1 10:00
鈴木 美帆 スポーツ|サッカー

東京・品川区「デフリンピック認知度120%プロジェクト」のサポーターの植松隼人さん=同区(鈴木美帆撮影)
東京・品川区「デフリンピック認知度120%プロジェクト」のサポーターの植松隼人さん=同区(鈴木美帆撮影)

「デフリンピックを通して歩み寄れる社会を目指したい」。サインフットボールしながわ(東京都品川区)代表兼コーチでデフサッカー男子日本代表前監督の植松隼人さん(42)。11月に開催される聴覚障害者の国際スポーツ大会「東京2025デフリンピック」を啓発する同区の「デフリンピック認知度120%プロジェクト」サポーターとしても活動している。地元である同区から、デフリンピックの魅力の発信や当事者視点を持つ街づくりに尽力している。


サッカーで手話上達

生まれつき重度の感音難聴を持つ植松さん。日頃は手話や口の動きなどから読み取る「口話」でコミュニケーションを取っている。サッカーを始めたのは友達に誘われた小学5年生の時。大学生になりデフサッカーと出合い、平成22年からデフフットサル代表として国際大会に出場した。引退後、デフサッカーの日本代表コーチを経て29年監督就任。令和5年のデフサッカーワールド杯では史上初の準優勝へと導き、昨年3月勇退した。

「サッカーはコミュニケーションスポーツ。デフサッカーは試合中に言葉が見える」。プレー中は補聴器などを外すため、声も出すがアイコンタクト、ジェスチャー、手話が大事なコミュニケーション手段となる。

日常的な手話は使えていたが、スポーツの場で激しくコミュニケーションを取ったりするのは不得意だった植松さんは、デフサッカーの仲間に教えてもらうことで上達。プレーが円滑になるだけでなく、日常の話題や悩みなどを分かち合えた。「手話という言語での何気ない会話は結束力の大事な要素」だと実感した。

日本代表では久々のろう者の監督であり、「実力をもっと発揮できるやり方がある。気付けるのは自分が聞こえないから」と、当事者ならではの視点を戦術へ取り入れた。

競技をただ知るだけではなく、より深く知ってもらいたいと認知度120%を掲げる同区のデフリンピックサポーターとして、イベントや学校での講演会に積極的に関わる。「当事者が発信しないと」とSNSも積極的に活用している。


聴者と障害者が一緒に

自身が主宰する年少から中学3年までのサッカー、フットサルスクール「サインフットボールしながわ」では、音声での「おしゃべり」に掛けて「聴こえない子と聴こえる子も一緒に手話べりする空間」を掲げ、子供たちは垣根なくともにプレーしている。タイの子供たちとの交流も行っており、国籍や特性を越えてコミュニケーションを取り、楽しむ場を作っている。

今大会で100周年を迎えるデフリンピック。都内や近隣県で21競技が開催され、五輪にない種目もある。デフリンピックが果たす役割の一つは「言葉のバリアフリー」だとし、聞こえない人のためのものではなく一言語である手話に多くの人に触れてもらい、選択肢として広がる機会になればと願っている。

「世の中不便だらけ。でも聞こえる人も不便を感じていると思う。いろんな人がいるのは当たり前だが、当事者の視点がない」と、街づくりへの当事者の参画や声の反映の少なさを感じている。

「スポーツが街のヒントになる」と、デフリンピックの会場運営や応援、競技方法、コミュニケーションなどの工夫は、街づくりへ活用できるものがあるのではないかという。

「障がいを生み出しているのは人ではなく環境。聞こえない人、車いすの人、目の見えない人。不便をなくすために一緒にアイデアを出して街づくりをしたい」

挑戦し失敗しても、「良くする方法と工夫は自分の中で考える。考えるだけではなく、すぐ動く」と、その行動力で周りを巻き込む植松さん。「デフリンピックはあくまでも通過点」。誰もが自分にあったやり方で共生できる理想の社会はまだ先にある。その実現のためにまずは「応援の仕方や見る楽しみを体験してほしい」と、認知度120%に向けて奔走する。(鈴木美帆)


うえまつ・はやと 昭和57年5月生まれ。品川区出身。先天性感音難聴。デフフットサル元日本代表、デフサッカー男子日本代表前監督。聞こえない子も聞こえる子も手話を通じてサッカーやフットサルを楽しむ「サインフットボールしながわ」(同区)を主宰。同区「デフリンピック認知度120%プロジェクト」サポーター。


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