改善できる危険因子

(Vadym Gannenko/gettyimages)
「聞こえ」について、皆さまは何か考えたことがあるだろうか。
「年を取ると聞こえづらくなる」とか、「高齢者には大声で話す人が多い」とか、「聞こえなくなるのは当たり前だし、仕方ない」――そんなイメージをお持ちだろうか。
では、聞こえづらさが認知症に関係すると言ったら、どうだろう? 真剣に対策しようと考える人は、どれくらいいるだろうか。
と、問いかける形で書いたのは、私自身が「聞こえ」について、余り考えてこなかったからである。アクシデントなどでふいに不調を感じたりした時だけ急に、真剣に考えたりもしたこともあるけれど、普段は自分の耳について意識することはほぼない。また、定期的に聴力検査を受ける習慣も持っていない。私にとって、「聞こえる」というのはごく当たり前のことであり、遠い未来の可能性としても「聞こえなくなる恐れがある」とは、想像したこともなかった。去年、認知症を回避する方法を調べ始めるまでは……。
そう、この連載で書いてきた通り、私は去年からにわかに認知症について調べ始めた人間である。そして調べ始めてすぐに知ったのが、認知症には「科学的な根拠に基づく危険因子」というものがあり、その一つに難聴があげられているということだった。
認知症に長く携わってきた人たちにとっては、もしかしたら難聴という因子は割と新しいものなのかもしれないが、去年から調べ始めた私には、最初に意識すべき大きな要素として頭にインプットされた。なぜかというと難聴には、「改善できる」という側面があると同時に知ったから。
12の危険因子とは?
2020年に世界的な医学誌「ランセット」の国際委員会が発表した報告によると、認知機能低下の危険因子のうち介入可能なものは12あり、その筆頭に難聴があげられている。

12の危険因子とは、「難聴」の他、「幼少期の教育」「喫煙」「抑うつ」「運動不足」「高血圧」「社会的孤立」「肥満」「糖尿病」などで、これらを改善することができれば、理論上は認知症のおよそ40%について、発症や進行を遅らせたり、回避したりできる可能性があると言う(難聴は、トップの8%だ!)。
ちなみに「12」の因子とは、現在までに科学的根拠が証明されているものであり、研究途上にある「睡眠」などの因子が将来加わると、認知症になる可能性はもっと減らせるかもしれないとも言われている。
難聴と認知症
では、難聴になるとどうして認知症になる可能性が高まるのだろうか。
長年、聴覚研究に携わってこられ、現在は「オトクリニック東京」で院長を勤めている慶應大学名誉教授の小川郁先生に伺った。

「難聴になることが、イコール認知症に結びつくのではありません。難聴によって、コミュニケーションが少なくなったり、やる気がそがれて意欲を失ったりしていくことが結果的に認知症を引き起こしていくのです。
私たちの情報の8割は視覚から入ると言われていますが、耳からの情報はコミュニケーションを司っているという意味で、そして情動の引き金になるという意味でとても大事です。
“聞こえ”の裏側には“言葉”があり、私たちは言葉を聞いて、頭の中でその言葉を理解し、自分の言葉として相手に返しています。聞いた言葉を理解する際には、必ず楽しい、悲しい、嬉しい、不快だといった感情が伴います。よって、耳からの情報は“情動”の引き金にもなります。つまり、“聞こえ”は、人としての様々や想いや気持ちも生み出しているのです」(小川先生、以下同)
なるほど!「コミュニケーション」に関するイメージはある程度想像できていたが、情動の「引き金」というか「入口」になっている」というのは、指摘されてハッとさせられたし、腑に落ちた。「音」が想像力をかき立てたり、感情を揺さぶったりするというのは、音楽やラジオの声を聞いて「感じるものがある」ということからも想像できる気がしたのだ。そして、音が私たちの感情を想起させ、言葉を生むとするならば、それは思考のきっかけにもなっているはずだ。そう考えると、「聞こえ」が私たちに与える影響は、どれほどのものになるだろうか。
例えば今、自分の「聞こえ」が悪くなったとイメージしてみよう。
すると、人に話しかけられてもわからないケースが増えるかもしれないし、聞き返す回数も増えるかもしれない。そしてそういうことが重なると、相手に「悪い」と思うようになるだろうし、笑ってごまかしたり、知ったかぶりをすることが増えるかもしれない。すると、様々な信用を失ってくかもしれないし、自分から外に出ていくことが億劫になっていくかもしれない。そしてゆくゆくは、認知機能をキープする上で大事だとされる「コミュニケーション」も「運動」もしなくなっていくかもしれないし、自分自身の感情や思考も薄らいでいくかもしれない。「耳からの情報」は、私たちが思っていた以上にとても大きなものだったのだ。
65歳以上の3割以上が難聴
しかしこうなると、できる限り難聴を回避したいところだが、そもそも難聴とはどういう状態を言うのだろうか。
「難聴とは聞こえにくい状態のことで、多くの病気が原因となり生じる症状です。私たちは、外から集めた音(振動)を耳で電気信号に変えて、脳に伝えています。外耳から中耳、内耳を経て脳に伝わる一連の経路を聴覚路と言いますが、そのいずれかに異常や機能低下が起こると、脳に伝わる電気信号が少なくなって、聞こえが悪い状態、難聴になります。

年齢が高くなるにつれて増えてゆく加齢性難聴は、内耳(図参照)の中にある1万6000個ほどの有毛細胞が折れたり抜け落ちたりすることで引き起こされるもので、今のところ、治療法がありません」
私たちの耳には20Hz(ヘルツ)の低い音から2万Hzの高い音までの幅広い音を聞き取る力があるというのだが、年齢を重ねると、高い音から聞きづらくなっていくという。
難聴レベルは4段階
「難聴の程度は、どれだけ小さい音まで聞こえるかによって分類され、音の大きさは聴力レベルdB(デシベル)で表わされます」

「25dB(木々のそよぎ音までが聞こえる程度)なら正常聴力、26〜39dB(小雨の音が聞き取れない程度)だと軽度難聴、40〜69dB(日常会話に支障をきたす程度)だと中等度難聴、70〜89dB(ピアノの音が聞こえない程度)では高度難聴、車のクラクションが聞こえない90dB以上だと重度難聴になります。そして中等度難聴以上になると、補聴器が必要になります」
加齢性難聴の患者数は年齢が高くなるにつれ増えていき、65歳以上では3割以上が難聴、75歳以上ではおよそ半数が難聴だと言われている。

難聴のレベルは4段階に分けられる(小川先生作成)
「難聴を悪化させる原因には、糖尿病や高血圧などの生活習慣病や騒音などがあります。高血圧や高コレステロールなどで血液がドロドロになると、それだけ小さな内耳という器官が障害されやすくなるのです。また、大きな音などで耳に負担をかけることも難聴の原因になります。ですから、地下鉄など騒音の中で音楽をイヤホンで聞き続けている人は注意したほうがいいでしょう。
とはいえ、加齢性難聴になるか否かは遺伝的な理由が大きいので、現時点では予防すれば避けられるというものではありません」
では、難聴になった時にはどうすればいいのだろうか。
補聴器が認知症回避につながる
「加齢性難聴に対しては、なるべく早期に介入して聴覚刺激を増やすことで、言語機能や言語による情動といった高次機能を活性化できる可能性があります。逆に言うと、聴覚刺激が減ることで脳内に何かしらの変化が起こることが考えられます。実際、加齢性難聴の患者さんに脳の萎縮が見られることがあります。
また、米国で行われたコホート研究(→注)の結果から、難聴によって認知機能が低下し、軽度から中等度の難聴を放置すると、7歳歳上の人の認知機能と同じになることがわかりました。さらに、フランスや英国での大規模なコホート研究でも難聴と認知機能低下には明らかな相関が認められ、補聴器を装用している難聴者の場合には認知機能の低下がないことが報告されています」
つまり、補聴器が認知症回避に役立つ可能性があるということだ。しかし日本は先進諸外国に比べて、補聴器の普及が遅れているという。それはいったいなぜなのか。
次回は、補聴器普及の現状を見ながら、普及を妨げている原因について考える。(続く)
注1)コホート研究とは、「特定の要因」を持つ集団と持たない集団を一定期間追跡し、研究対象となる疾病の発生率を比較することで、要因と疾病発生の関連を調べる研究のこと。
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