手指の語り、まなざしの対話──ろう重複障害の子どもたちと向き合う 記事:明石書店

手指の語り、まなざしの対話──ろう重複障害の子どもたちと向き合う 記事:明石書店

2025.10.08
記事:明石書店

『ろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション』(松﨑 丈著、明石書店)  ろう重複障害とは、聴覚障害に加えて知的障害や発達障害などを併せ持つ状態

『ろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション』(松﨑 丈著、明石書店)


 ろう重複障害とは、聴覚障害に加えて知的障害や発達障害などを併せ持つ状態を指します。これは単なる障害の足し算ではなく、個々に異なる複雑な課題状況を生じさせます。そのような「ろう重複障害児」との複雑なコミュニケーションに関して、具体的な事例を通してそのあり方を探った『ろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション』(明石書店)を著者の松﨑丈氏の同僚で共同研究者でもある菅井裕行氏(宮城教育大学)にご紹介いただきました。

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 本書が扱う、ろう重複障害という領域は、これまで関連する書籍が少なく多くの人々にはおそらくなじみのない領域だと思われますが、それだけに本書は、独特なものであると同時に、実はこの障害領域に関心のない方にとっても、あるいは人間一般のコミュニケーション行動に関心のある人にとっても、大きな示唆を与えるものであることを、評者なりに紹介してみたいと思います。

 著者である松﨑氏は先天性の聴覚障害者で、手話や文字を日常のコミュニケーション手段として用いながら、大学教員として聴覚障害教育の領域に関わる教員養成並びに学生指導を行いつつ、一方で、ろう者の権利擁護、言語としての手話理解、当事者研究の交流のために全国を飛び歩く行動する研究者の1人です。

 評者は、聴者で著者と同じ職場で働く大学教員であり、ここ数年は著者と一緒にろう障害教育の研究プロジェクトに取り組んでいます。この本にはその研究成果もふんだんに取り込まれているので、ここでは共同研究者の立場からこの本について述べてみようと思います。


本書のテーマ


 これまで、日本の特別支援教育は、主要な5つの障害領域、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱障害に基づいてその支援システムを構築してきました。けれども、子どもの中にはいくつもの障害を併せ有している子どももいて、その割合は全体の4割を超えています。重複障害のある子どもの中には軽度から重度まで様々な状態像を示す子どもがいて、その様相は各障害カテゴリーごとのイメージよりも、はるかに多様で複雑です。したがって、その教育上のニーズもまた複雑で重層的です。本書は、その重複障害領域の中の1つであるろう重複障害を取り上げ、そのなかでも特に子どもたちとのコミュニケーションを主題としています。


目を見張るエピソード記述

 著者は、まず第1章で、これまで出会ったろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション場面をエピソード記述として取り上げ、そこに起きているやりとりの実相を細かく分析的に記述していきます。そしていかにして子どもたちとのコミュニケーションを形成、展開させていくかについての考えを述べていきます。取り上げられる子どもたちはいずれも聴覚障害に加えて、知的障害や肢体不自由、発達障害など他の障害を併せ有する子どもたちです(ただし、視覚障害を併せ有するいわゆる盲ろう児は著者の研究領域には入っていません)。そして手話や手指サインを発信するために必要な手指運動が可能な子どもたちでもあります。著者自身がろう者であって、手話や手指サインを主なコミュニケーション手段としていることから、子どもたちの手指コミュニケーションの可能性を、個々の子どものわずかな手指、表情、視線等の動きの中に見出すエピソードは目を見張るものがあります。

 聴覚障害とコミュニケーションというテーマに関して、これまで特に教育の歴史の中では、聴者のコミュニケーションへの接近を第一とする口話法と、ろう者の伝統的なコミュニケーション手段である手話法とが相対立するものとして捉えられ、あたかもどちらかを選択することが最大の教育課題であるかのように述べられる向きがありました。著者はそういった問いからは距離をおき、音声活用の困難であるろう聴覚障害の子ども一人ひとりのコミュニケーションの成り立ちを個別具体的な成長過程の中で考えるところから始めて、やがて手指を活用するサインから手話へと展望を広げていきます。聴覚障害があるから直ちに手話を導入するといった粗雑な論を避け、あくまで一人ひとりの子どものコミュニケーション課題を丁寧に分析するという立場から考察を進めていく点に、本書の大きな特徴があります。

 また、個々のエピソード記述の解説にあたって、近年の発達心理学で言及されることが増えたいくつかの心理学用語に加え、独特な心理学用語が用いられています。その多くは、心理学の世界ではその独自性が際立つ梅津八三(1906年〜1991年、元東京大学・国際基督教大学教授)の信号系活動に関わる理論に依拠しています。これまで梅津の心理学用語は、その基盤となる仮設系についての詳細な説明なしには理解が難しいことから、難解であると評されてきました。本書で初めてこれらを目にする人にとっては、なじみのない用語にいささか面食らうかもしれません。そのため著者は学校の先生方や支援関係者が理解しやすいようにと考え、自身のエピソード記述と関連させながらその解説を試みており、さらに第2章では用語や視点の定義や内容について補説もしていますが、その適否は読者の評をまたければなりません。この梅津の心理学用語等を用いて、子どもの行動、子どもと係わり手のコミュニケーションを説明している点がもう一つの本書の特徴といえるでしょう。


著者の理論的基盤


 第2章では、第1章の個々のエピソード記述をめぐる解説の元となっている著者自身の視点についての説明です。その多くの部分は、先述のように梅津八三が1970年代〜1980年代に提起した独自の心理学理論に基づくものです。梅津は、まだ障害に関して「社会モデル」というキーワードが知られていなかった時代に、障害とは子どもの中にあるのではなく、子どもと関わりたいと思っている人自身の中にも存在するものとして、「相互障害状況」という用語を用い、この状況から双方が立ち直っていくことを「相互輔生」と名付けた実践研究者でした。本書全体を貫く子どもの見方、支援の在り方には、この梅津の切り開いた心理学の地平に通じるものが多くあるというのが、評者の考えです。加えて、この第2章には、評者も共同研究者の1人として著者とともに考えてきた信号様式に関わる視点の他に、手指型の信号の分析、手話言語学とのつながりについても触れられていて、より専門的な視点へのつながりを求めている読者にとっても興味の尽きない内容になっていると思います。

 この本で述べられているろう重複障害のある子どもとのコミュニケーションの問題は、障害のある子どもとの係わり合いにおいては、いつも根底にあることです。特に実践の場に身を置く人にとっては、常に抜き差しならない課題として迫ってくる事柄だけに、ぜひともこの本が提起する考えに耳を傾けてほしいと思います。また個々の子どもとの具体的係わり合いの場面の記述の仕方は、教育や心理を学ぶ初学者には最適なモデルにもなるでしょう。そして何より「つながり」「分かち合い」「分かり合い」を目指すものとしてコミュニケーションを理解する著者の想いに、多くの実践者に触れてほしいと心から願うものです。


この記事を書いた人


菅井裕行
(すがい・ひろゆき)

1961年、大阪府生まれ。東北大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専門は感覚重複障害教育、聴覚障害教育、コミュニティ心理学。現在、宮城教育大学大学院教授。共著に『障がいの重い子どもと係わり会う教育』(障がいの重い子どもの事例研究刊行会編、明石書店)、『コミュニティ心理学シリーズ:コンサルテーションとコラボレーション』(久田満・丹羽郁夫編、金子書房)、『東日本大震災と特別支援教育ー共生社会にむけた防災教育を』(田中真理・川住隆一・菅井裕行編、慶應義塾大学出版会)などがある。


この本を書いた人


松﨑 丈
(まつざき・じょう)

現在、宮城教育大学教授。専門は教育心理学、特別支援教育、障害学生支援。
ろう者。先天性風疹症候群による重度の感音性難聴。
1977年 広島県生まれ。
1999年 宮城教育大学大学院教育学研究科修士課程修了。
2001年 東北大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。
2005年 宮城教育大学で特別支援学校教員養成に取り組む。

【主要な著作】
『聴覚障害×当事者研究――「困りごと」から、自分や他者とつながる』(編著、金剛出版、2023年)、「ろう者の感覚と音楽」(共著、雫境編『『LISTEN リッスン』の彼方に』論創社、2023年)、「聴覚障害から見た社会的バリア」(共著、田中真理・横田晋務編『障害から始まるイノベーション』北大路書房、2023年)、「研究者から見たろう・難聴児のことばの発達と概念形成」(共著、バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター監修『聞こえなくても大丈夫!――人工内耳も手話も』ココ出版、2022年)、「聴覚障害のある学生や研究者への合理的配慮と事前的改善措置」(論文『学術の動向』27巻10号、2022年)

 
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