“難聴”は「しーんと静か」ではなく「うるさい」3つの理由 難病当事者が再発見した〈ベートーヴェンの手紙〉

“難聴”は「しーんと静か」ではなく「うるさい」3つの理由 難病当事者が再発見した〈ベートーヴェンの手紙〉

頭木 弘樹2026/01/31

『痛いところから見えるもの』が話題の難病の当事者・頭木弘樹さんは、「難聴」を経験して初めてその「うるささ」に驚愕したという。ベートーヴェンが綴った苦悩から、村上春樹作品が描く「痛みの絶望」まで、私たちはどう他者の痛みと向き合うことができるのだろう?

(本稿は、前掲書から一部抜粋したものです)

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湖畔の静けさとは無縁の「難聴」 ©AFLO

湖畔の静けさとは無縁の「難聴」 ©AFLO


3つの意味で難聴は「うるさい」

 私自身も、「経験しないとわからない」ということを何度も感じてきた。自分が難病だから、他人の痛みにもある程度は敏感なはずなのだが、それでも「まったくわかっていなかった!」という反省をくり返している。何度反省しても、やっぱり「経験しないとわからない」のだ。

 たとえば難聴になったとき、「難聴はうるさい」ということを初めて知った。音が聞こえなくなるのに、うるさいというのは矛盾しているようだが、実際、三つの意味でうるさくてたまらない。

 ひとつは耳鳴り。難聴のときは耳鳴りがひどいのだ。

 二つ目は、特定の音をとてもつらく感じるということ。私の場合、草刈り機の音が耐え難かった。草刈り機の音は普通でもうるさいが、それとはレベルがちがって、悶絶しそうになるほどなのだ。

 三つ目は気配。人は耳で気配を察知しているようだ。べつに何か聞こうとしなくても、いつも周りの音は耳に入っていて、だから後ろから人が歩いてきてもわかる。それが難聴になると聞こえない。そうすると、気配がその分だけ失われてしまう。失われたところに何が入ってくるかというと、不安が入ってくるのだ。気配がわからなくなるから、何か逆にいるような気がするのだ。

 たとえば真っ暗な道を歩いていると、何か現れてきそうな気がしてこわかったりする。よく見えないから、逆に見えないものを見てしまうのだ。耳が聞こえなくなっても同じで、何か不気味な気配を逆に感じてしまう。つい振り返ってしまうような。そういうような精神的なうるささもあった。

頭木弘樹さん

頭木弘樹さん 


ベートーヴェンはどんな状況で作曲していたのか

 というわけで、耳鳴りはするし、特定の音は耐え難いし、妙に不安な気配にさいなまれるのだ。自分がなってみるまで、難聴というのは、しーんと静かになるのだとばかり思っていた。実際はぜんぜんちがったのだ。経験してから、あらためて読んでみると、難聴になったベートーヴェンの手紙には、たしかにそういうことが書いてあった。

” 耳の方は、昼夜を分かたずざわめき、ぶつぶつ(sausen und brausen)いっている。(中略) 
 楽器や歌声の高い音は、少し離れるともう聞こえない。(中略) 
 しかし誰かが大声でやり出すと、もう僕はやりきれなくなる。 ”

 ベートーヴェン『新編 ベートーヴェンの手紙(上)』小松雄一郎編訳 岩波文庫


 最初に読んだとき(まだ自分が難聴を経験していなかったとき)、大声でしゃべってくれれば聞きやすいはずなのに、なぜ「やりきれなくなる」のかひっかかったが、そのまま流してしまっていた。

 ベートーヴェンは音が聞こえない状態で作曲してすごいと思っていたが、じつはそれだけでなく、さらにうるさい中で作曲していたのである。自分が難聴を経験するまで、ずっとわかっていなかった。

ベートーヴェンの銅像 ©AFLO

ベートーヴェンの銅像 ©AFLO


何度も聞いた「おまえなんかにはわからないんだ!」

 もし難聴になった人から「うるさくて」と言われたとしたら、以前の私ならきっと「聞こえるんなら、ぜんぜん聞こえないより、まだいいじゃない」などと、まったく無理解ななぐさめの言葉を投げかけていたことだろう。

 そんなことを言われれば、相手はその無理解さに腹が立つだろう。実際、病院の6人部屋に入院しているとき、「おまえなんかにはわからないんだ!」とキレてしまった患者の声を何度聞いたことだろう……。

 こういう爆発は本当に悲しい。言ったほうも落ち込む。なにしろ、自分の苦しみを誰にもわかってもらえないという絶望から発せられた言葉なのだから。言われたほうも気分が悪い。たとえば子育ての大変さについて愚痴を聞いてあげていたのに、「あなたは子どもを産んだことがないんだからわからない」と言われたら、どうだろうか。腹も立つだろうし、悲しくもなるだろうし、もう相手の話を聞いてあげる気持ちは失せてしまうだろう。

 お互いにとって、こういう爆発はよくないのだ。

 では、どうしたらいいのか?


「わからないことがある」という前提に立つ

 村上春樹の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』に、加納クレタという女性が出てきて、さまざまな痛みを経験してきたことを語る。

” 私の言う痛みとは純粋に肉体的な痛みのことです。単純で、日常的で、直接的で、物理的な、そしてそれ故により切実な痛みのことです。具体的に申し上げれば、頭痛、歯痛、生理痛、腰痛、肩凝り、発熱、筋肉痛、火傷、凍傷、捻挫、骨折、打撲……そういった類の痛みのことです。私は他人より遥かに頻繁に、そしてずっと強くそのような痛みを体験しつづけて参りました。 ”

『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』新潮文庫


 この加納クレタが、恋人から「君には努力が足りないんだよ。結局自分に甘えているのさ。君はいろんな問題を全部痛みに押しつけているんだ。愚痴ばかり言っていても仕方ないだろう」と言われる。 


” それを聞いてこれまで我慢していたものが、私の中で文字通り爆発してしまいました。『冗談じゃないわ』と私は言いました。『あなたに苦痛の何がわかるっていうのよ。私の感じている痛みは普通の痛みなんかじゃないのよ。痛みのことなら、私はもうありとあらゆる種類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ』、私はそう言いました。そしてこれまで自分が経験してきた痛みという痛みを洗いざらい並べあげて説明しました。でも彼にはほとんど何も理解できませんでした。本当の痛みというものは、それを経験したことのない人には絶対に理解できないのです。そのようにして私たちは別れました。 ”


 この「本当の痛みというものは、それを経験したことのない人には絶対に理解できないのです」という言葉は、真実だと思う。

 “経験していないという壁”は、どうしたって越えられない。だから、どうやって越えたらいいのかと考えることは無意味だと思う。

 では、絶望なのか? 痛みを話すことも、聞くことも無駄なのか?

 そうは思わない。

 ソクラテスの「無知の知」ではないが、「いくら想像しても、経験していない自分にはわからないことがある」という前提に立つことが、まず理解のスタートラインだと思う。


書影「痛いところから見えるもの」

痛いところから見えるもの

頭木 弘樹
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