高度経済成長でも「仕事がない」難聴者が就職で突きつけられた現実と一筋の光

高度経済成長でも「仕事がない」難聴者が就職で突きつけられた現実と一筋の光

宿谷辰夫: 全難聴理事長   宇田川芳江: 全難聴副理事長兼事務局長
2026年1月23日 7:00

こめかみに手を当てて仕事をする男性の白黒写真

写真はイメージです Photo:PIXTA


高度経済成長の只中、大学には大企業の求人が殺到していた。だが、難聴の学生にはその波が届かない。「推薦は無理だ」、就職活動で突きつけられた、努力では覆せない壁。それでもなお、自活の道を諦めず、働く場所を求めてもがき続けた著者が、見いだした人生の光とは。※本稿は、全難聴理事長の宿谷辰夫編、全難聴副理事長兼事務局長の宇田川芳江編『難聴を生きる 音から隔てられて』(岩波書店)のうち、当事者の内悧氏による執筆パートを編集したものです。


生まれて初めて直面した

「就職」という一大難関

 私は1944年に東京・小山台に生まれた。出生直後、熱病に罹り難聴となった。戦時中で防災訓練や防空壕堀りが繰り返される毎日。私が熱病に罹っても十分な治療は受けられず、耳の障害はそのまま残った。翌45年3月にはB29によって、東京の下町は焼き尽くされた。

 戦局の悪化で国民学校の訓導だった父に疎開命令が出され、一家は7月に父母の郷里の広島に疎開した。爆心地から7キロ離れた村で原爆の直撃は免れたが、その直後に降った黒い雨の被害に遭った。その後遺症なのか年中倦怠感がし、75歳で甲状腺がんを発症してからは大学病院への通院を重ねている。

 聞こえの障害はあったものの、両親と姉、兄も教員だったので、高校までは家族のサポートを得て順調に学業を終えることができた。大学は地元の国立大学にストレートで合格した。専攻は経済学だった。聴力が相当に悪化していたため、教授の言うことは全く聞き取れず、大学では学ぶのにちょっと苦労した。

 今の難聴学生が享受しているノートテイク(編集部注/主に聴覚に障害のある学生が授業内容を理解できるよう、授業中の先生の話や教室の状況をリアルタイムで文字に書き起こし、伝える情報保障活動)など全く存在せず、友人のノートを拝借し、あるいは大学図書館に籠って専門書を読みこなすことで、所定の単位をなんとか修得した。卒業論文は「旧ソ連の利潤問題について」で合格の判定を頂いた。

 だが就職は生まれて初めて直面する一大難関となった。当時の日本は高度成長まっしぐらで大学にも銀行、商社、造船等の大企業から求人が殺到した。卒業見込みの者は早々に内定を取り皆悠々としていたが、難聴の私にだけさっぱり声がかからない。卒業が迫っても全く就職先が決定しないことに随分焦り、就職担当の教授に「なぜ推薦して頂けないのか」と尋ねた。

 教授は「君、耳が聞こえないのだろう。とても推薦は無理」と、さも当然そうに言った。教授は社会学の専門家として著名で、地元ではかなりの人格者とみられメディアに露出の多い人だった。そんな方でも障害を有する学生には一片の配慮もないことに暗澹たる思いだった。

 中学の校長だった父の縁故で、卒業間際にようやく地元の乳業会社に就職した。仕事は事務職だったが、顧客や牛乳販売店などからひっきりなしに電話がかかり事務所は戦場のようだった。その中、私だけが電話ができずのんびりと記帳したり、ゆっくりと算盤の玉をはじく状態で職場から孤立していた。


自活の道を決意するも

無能力者とみなされ失望

 小さな会社でほとんど業績に寄与することもできず追い出されるようにして1年ほどで退職した。この時ほど難聴の辛さを痛感したことはなかった。しばらく呆然たる思いで自宅に閉じこもっていた。人生のスタートで大きく挫折した屈辱感で一杯だった。

 父はすでに中学校を退職しており、私を遊ばせる家計の余裕などなかった。現実はすこぶる厳しい。仕事は何でもよい、自活の道を早く確保しようと気持ちを持ち直し、地元の職安(公共職業安定所)を訪れた。身障者就職紹介の窓口に行った。でも何度訪れても一向に就職先を紹介してもらえない。広島は経済規模が小さいため中小企業が多く、私を雇用してくれる企業はありそうになかった。

 そうした事情を理解はしてもなかなか紹介してもらえないので、係の人に「何とかしてください」と申し出ると、求人票の束を目前に投げつけられ、「お前が自分で探してみろ」と多くの職員がいる中で大声で怒鳴られた。

 何か自分が悪事を働いたみたいで恥ずかしくていたたまれず、そのまま自宅に帰った。自分は社会で無能力者のようにみなされていると失望ばかりしていた。

 広島では私に適した仕事は皆無と自覚して、思い切って上京した。東京には無数に企業が存在し、私のような難聴者でもきっと働けるところがあると期待した。当時、日本で最大規模といわれた東京・飯田橋の職安に行った。そこで身障者に理解がありそうな企業を10社ほど紹介してもらった。

 職安からの紹介状を持って企業を訪問した。人事担当者と面接して、私が補聴器を着け言語の明確さを欠き応対もスムーズでなく肝心の電話ができないと知ると、即座に「お断りします」と門前払いされた。大東京でも障害者に冷たいと思っていると、飯田橋職安から品川の倉庫会社を強く推薦された。

 足を運ぶと「人がいなくて困っている。明日にでもすぐに来てくれ」と言われ、その場で快諾して翌日から働き始めた。旧財閥系の中小企業だった。算盤の玉をせっせとはじきタイガー計算機を操作して保険料を割り出し、日本橋の火災保険会社に提出する仕事だった。連日の残業だったが、電話ができなくても働けるのはよかった。だが多忙な割には給料が安く、武蔵小山の安アパートの家賃を払ったらほとんど残らなかった。


東京でも行き詰まり

故郷・広島に帰郷する

 その頃から公務員試験の勉強を始めた。障害者の自分にとって安心して働くことができ将来を託せるようなところは公務員しかないと思った。退社後、アパートで夜遅くまで必死になり休日も返上して公務員試験勉強に打ち込んだ。東京都、埼玉県、国家公務員、国会図書館、国税専門官の試験を矢継ぎ早に受けた。たいてい1次の筆記試験に合格しても2次の面接で不合格になった。

 不合格の理由を自治体の人事課に照会すると、「障害者、とくに聴覚障害者の採用は前例がない」と言われた。ただ唖然とするばかりだった。すでに障害者雇用促進法が施行されているのに、模範となるべき役所が障害者の採用に消極的とは自己矛盾ではないのかと釈然としなかった。しばらく東京の会社で悶々たる気持ちで働きそれにも行き詰まって広島に帰った。

 障害者採用に熱心な運送会社があると聞き、そこで働いた。仕事は運輸伝票をチェックして輸送運賃量を計算するもので、毎日夜10時までのサービス残業が続いた。障害者の積極的雇用の聞こえはよくても、どこでも使い捨てのように働かせることに絶望した。

『難聴を生きる 音から隔てられて』書影

難聴を生きる 音から隔てられて』(宿谷辰夫、宇田川芳江、岩波書店)


 職場の昼休みに弁当を食べながら新聞記事の片隅の広告を見て、地元の自治体が職員を募集していると知った。文字通り藁にもすがる思いで受験した。いつものように1次の筆記試験はパスだった。また面接で落とされるのではと思い、地元の障害者ボランティア団体等から、私の採用を役所に働きかけてもらった。今度もだめかなと思っていたらなんと「採用」だった。私はもう29歳になっていた。その年結婚したばかりの妻と涙を流しながら喜び合ったものだ。

 役所では人間関係がきつかったが、仕事は割と楽で難聴の私でも容易にこなせた。ただ会議や打ち合わせなどでは難聴者の私にまったく配慮がなく、筆談すら不十分で困ったことは多々あった。公務員生活を終える頃聴力がゼロとなった。補聴器も使えず、非常に落胆していたところ、人工内耳の電極を埋め込む手術を受け、音がよみがえったのがすこぶる嬉しかった。

 60歳で公務員生活におさらばして、地元の難聴者団体に入会した。会員の皆は私と同じ障害を有しているだけにすぐに溶け込んだ。10年ほど前に会長に推薦された。活動は楽しくやりがいがあって、そこは自分にとって最上の安住地と思っている。私はもう81歳と人生の終点に近いが、今こそ人生のピークに到達したと満足感で一杯だ。(2級・元公務員・81歳・広島県)


リンク先はDIAMOND onlineというサイトの記事になります。


 

ブログに戻る

コメントを残す