谷本 哲也 : 内科医
2025/12/16 5:30

『ランセット』が提唱する認知症のリスクとは?(写真:Graphs/PIXTA)
中高年の方なら健康診断の数値に一喜一憂した経験が少なからずあるだろう、血圧、コレステロール、血糖値。
これら生活習慣病に関連する数値は、これまでも心臓病や脳卒中を防ぐための指標として重要でした。ところが、近年になって、血管の健康が将来の認知症リスクと深く結びついているとして、数値をよくすることがますます重要視されているのです。
認知症には「打つ手がある」
世界の最高峰の医学誌『ランセット』が2020年に続いて2024年7月、認知症リスク因子の最新報告を発表しました。
血圧や生活習慣の改善など、修正可能な14のリスク因子を取り除くことで、“認知症の約45%は予防、または発症を遅らせることができる”というのです。
2025年10月には、それらリスク因子にさらに加えるべき別の因子も提案されました。
「加齢や遺伝には打つ手がない」という従来の認知症の見方は、今では変わってきているのです。そんな認知症予防の最新事情について、解説してみたいと思います。
認知症に関連すると認められた14の因子は、人生の各段階で影響しやすい時期が異なります。
幼少期では教育歴の不足で、高等教育を受けたほうが高齢期での認知症リスクを減らせるのです。
40代以降は、聴力低下や高LDLコレステロール血症、うつ病、頭部のケガ、高血圧、喫煙、運動不足、糖尿病、過度な飲酒、肥満。60代以降では、社会的孤立や大気汚染への曝露、そして未治療の視力低下です(以下の表。※外部配信先では閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。

特に注目されたのが、2024年の改定で新たに追加された2つの因子、コレステロールと視力低下です。
40代以降の高LDLコレステロール血症は、脳の血管や神経細胞にも長期的な悪影響を及ぼし、認知症に約7%影響するとされました。また、60代以降で視力低下を放置しておくことは、脳が受け取る情報量を減らし、脳を衰えさせると考えられます。
40代から始めたい対策
認知症リスクを減らすためには、なんといっても40代からの血管ケアが最優先です。
健康診断でLDLコレステロール値が高いと出たら、決して軽視してはいけません。この因子だけで約7%の認知症を説明できるとされています。魚や野菜中心の食事、適度な運動、必要に応じた医療機関での治療を通じ、血管の健康を保つことが、将来の脳へのダメージを減らします。
日常の運動習慣も欠かせません。1日30分程度のウォーキングでもかまいません。エスカレーターを避けて階段を使う、昼休みに近所を歩く、通勤で1駅分歩く。こうした小さな習慣の積み重ねが、運動不足による認知症リスク(約2%)を減らします。
在宅勤務が増えた今こそ、意識的に体を動かす時間を確保することが重要です。
視力と聴力のケアも見過ごせません。「少し見えにくい」「聞き取りにくい」と感じたら、歳のせいと放置せず、医療機関を受診してください。
眼鏡の度数を合わせる、補聴器の使用を検討する、定期的な眼科・耳鼻科検診を習慣にする。視覚と聴覚から脳に届く情報量を保つことで、視力障害による約2%、聴覚障害による約7%の認知症リスクを減らせます。
社会とのつながりを保つことも重要です。社会的孤立による認知症リスクは約5%。テレワークが定着した今、意識しないと人との接点が減ります。
週に1度は同僚や友人と直接会う、ランチは外に出る、趣味のサークルに参加する、オンラインでも雑談の時間を持つなど、人との会話や交流が、脳を刺激し続けるのです。
中年期の生活習慣病対策にも注意が必要です。肥満は約1%、糖尿病は約2%、高血圧は約2%、喫煙は約2%、過度の飲酒は約1%。それぞれが認知症リスクを高めます。
そして、日本人の多くが曝露されている大気汚染。この因子だけで約3%のリスクがあります。PM2.5濃度の高い地域に住む場合、空気清浄機の使用や、運動する時間帯を選ぶなどの工夫も必要でしょう。
見過ごされていた女性のリスク
ここまでは、男女ともに実践したい認知症リスク対策ですが、実は前述したランセットの報告には、見過ごせない問題がありました。2025年10月の論文で新たに指摘された男女差と経済的影響です。
世界の統計を見ても、認知症は男性より女性に多く見られます。国際的な研究では、認知症の人は女性が男性のおよそ1.7倍と推計されています。これは、女性のほうが男性より平均寿命が長いことや、高齢になるほど認知症の割合が高くなることが大きく影響しています。
しかし、先に挙げた認知症対策の恩恵を受けやすいのは、断然、男性のほうなのです。
では、いったいこの矛盾をどう解釈すればいいのでしょうか。
この問題を指摘した国際研究チームの答えは明確でした。ランセット報告には、女性に特に影響する重要なリスク因子が抜け落ちている、という意見です。
研究チームが新たに提唱したのが、4つの追加リスク因子です。
資産の急激な減少は約14%、貧困は約2%、所得格差は約2%、そして主にアフリカなどで問題になるHIV感染は2%の認知症リスクに関係すると見積もられました。

貧困が認知機能を低下させる?
まず貧困について考えてみましょう。
世界推計によれば、女性は無償の家事・ケア労働に1日平均約4.5時間を費やしており、男性の約1.4時間の3倍以上にのぼります。
家事・ケア労働をすること自体は運動不足解消や社会的つながりを保つことになり認知症リスクは減りますが(関連記事:「家事」をする人は"脳が衰えない"報告続々の驚き)、収入が得られず貧困に陥ると、逆効果も生じてきます。
また、15〜24歳の若者のうち、教育も就労もしていないニート層は全体の約20%で、その約3分の2が女性です。若い女性が教育や仕事の機会から排除されやすく収入が得られにくい構造は、世界共通の課題です。
日本でも状況は深刻です。
相対的貧困率こそ全体で2割弱と高くありませんが、個別で見ると高齢者と単身世帯に貧困が集中しています。実際、最もリスクの高い高齢の単身女性の貧困率は4割超と推計されていますし、勤労世代でも、20〜64歳の単身世帯に限ると、女性のおよそ3人に1人が貧困ラインを下回っていると見られます。
貧困は単なる経済問題にとどまりません。
神経科学や脳画像に基づく研究によれば、貧困状態は脳の前頭葉や側頭葉、海馬の灰白質の容積の減少と関連しています。つまり、貧困は認知機能を低下させるおそれがあるのです。
複数の研究を総合すると、貧困は認知症リスクを平均約2倍弱高めることが示されています。
所得格差も同様です。日本の研究では、所得格差の改善が認知症のない健康寿命の伸びと関連することが示されました。国際的な研究の平均値では、所得格差は認知症リスクを約2倍高めます。
所得格差の大きな要因になっているのが、日本の男女賃金格差です。
2024年の賃金構造基本統計調査では、フルタイム労働者の月額賃金は男性36万3100円に対し、女性は27万5300円で、女性は男性の約4分の3の水準にとどまっています。
その背景にあるのが、女性に非正規雇用が集中していることです。
2023年には女性の約54%が非正規で働いており、男性の約23%に比べて倍以上の割合です。非正規は賃金も昇給も限られ、正社員との差が将来の年収や年金にまで響きます。特に30代以降は、結婚や出産をきっかけに女性の正規雇用が減るL字カーブが顕著で、ここから男女の格差が一気に広がっていきます。
経済的ショックによる資産の急激な減少の影響も深刻です。失業、突発的な医療費、市場の暴落など、家計資産の75%以上を失うような経験は、認知症リスクを平均14倍も高めることが、アメリカ、中国、イギリスなどの研究で明らかになっています。
日本の女性は、男性に比べて生涯賃金が圧倒的に低く、非正規雇用も多い。結婚して配偶者の収入に頼っていた女性が突如として経済的困窮に陥るケースも増えています。
HIV感染については、特にサハラ以南のアフリカで重要な因子で、HIVは認知症リスクを約2倍高めることが示されています。
経済問題は脳の健康問題でもある
非正規雇用の多さ、育児や介護による離職、昇進の遅れといった日本の女性が直面するこれらの問題は、単なるキャリアの問題ではなく、脳の健康の問題でもあるのです。
職場での男女格差の是正、同一労働同一賃金の実現、育児・介護支援の充実は、実は認知症予防策でもあるということです。
また、突発的な経済危機への備えも重要です。
経済的ショックは認知症リスクを大きく高める可能性があり、その影響はほかのどの因子よりも深刻です。ですので、家計の最低限の現金準備、過度な借り入れの回避、失業保険などのセーフティネットの理解。これらは単なる家計管理ではなく、将来の脳の健康を守る行動でもあるのです。
私たちの脳は、日々の暮らし方や働き方、そして社会の制度によって守られも、脅かされもします。
だからこそ生活習慣に加え、経済的基盤を整えておくことは、未来の認知症リスクを6割以上減らす最も確かな投資になることを知っていただければと思います。
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谷本 哲也 内科医
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たにもと てつや / Tetsuya Tanimoto
1972年、石川県生まれ。鳥取県育ち。1997年、九州大学医学部卒業。医療法人社団鉄医会ナビタスクリニック理事長・社会福祉法人尚徳福祉会理事・NPO法人医療ガバナンス研究所研究員。診療業務のほか、『ニューイングランド・ジャーナル(NEJM)』や『ランセット』、『アメリカ医師会雑誌(JAMA)』などでの発表にも取り組む。
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