2025.08.26
前橋真子さん(山梨・北杜市立甲陵高校3年)には、重度難聴の妹がいる。いつも「しっかり者の姉」として見られていることに、「本当の私」を見失い葛藤を抱えていた。「本当の私」を見つけるまでの日々を、弁論の舞台で発表した。(文・写真 椎木里咲)
初めて呼んでくれた「お姉ちゃん」
前橋さんには、重度難聴を抱える2歳下の妹がいる。幼いころに「人工内耳」をつける手術をして、発話を練習していった。
最初はなかなかうまく言えなかった「おはよう」も、だんだんと上達。数年たち、妹が初めて「お姉ちゃん」と言ってくれたときは、家族みんなで大喜びして涙を流した。

妹に抱えていた葛藤を発表した前橋さん
「しっかり者の姉」として見られ
一方で、前橋さんは妹に対してもやもやした気持ちを抱えていた。妹が生まれてから、友達や先生、近所の人から「お姉ちゃん、えらいね」「しっかり者だね」と言われ続けていたからだ。「『しっかり者』と言われるのはうれしかったけれど、『えらいね』と言われると悔しかった。『妹の姉』としか見られておらず、本当の私を見てくれていないと思っていました」
妹のことは好きだ。しかし、どこかうらやましい気持ちもあった。「私はみんなから『しっかり者』であることを求められているのに、妹はのびのびしていていいな、と感じていたんです」
「お姉ちゃんと同じ学校に行きたい」
前橋さんの心に転機が訪れたのは、妹が小学校に上がるタイミングだ。妹は聾学校の幼稚部に通っていたが、楽しそうに小学校に通う前橋さんの姿を見て、「お姉ちゃんと同じ、普通の小学校に行きたい」と言い出した。
「私にあこがれて『一緒に学校に行きたい』と言ってくれたんです。妹は『しっかり者の姉』でなく、『本当の私』を見てくれているんだと感じました。それからだんだん、妹に対するうらやましさがなくなったんです」
「自分の言葉で誰かを動かしたい」
前橋さんは自身の経験を「第49回全国高校総合文化祭(かがわ総文祭2025)」の弁論部門で発表し、優良賞を受賞した。
妹とはとても仲がいい。「年が近いのでけんかすることもあるんですけど」と笑う姿からは、かつての葛藤は見られないほどだ。

かがわ総文祭2026の弁論部門に出場し、優良賞を受賞した
今、前橋さんには夢がある。前橋さんは小学校のころまで、妹の耳のリハビリのため、耳の聞こえない人が集まるコミュニティーを訪れ、音楽を使って子どもの心身の発達を促す「リトミック」に一緒に通っていた。「一緒に演劇をやるなど、ボランティアをしていました。そこで自分は、人前で話すのが好きだと気づいたんです」
いろいろな背景を持つ人と関わる中で、「自分の言葉で思いを伝える大切さ」を知った。「アナウンサーなど、言葉で人を動かせる人になりたいです」
「お姉ちゃん」って呼ばれた日
前橋真子(山梨・北杜市立甲陵高校3年)
「お姉ちゃんは、いつも頑張ってて偉いじゃんね?」
妹が生まれてから、私は「しっかり者」として見られることが増えた。親戚、近所の人、先生たち。すごく嬉しいはずなのに心の奥がそっと冷える言葉。わかってもらえているはずのことがこんなに心細いなんて。
私は「SODA」だ。“Sibling Of Deaf Adults/Children”の略、『難聴のきょうだい児』をあらわすこの言葉にある雑誌で出会った。胸がざわつく。自分に特別な名前がつけられ、「みんなとは違う」と言われる気がした。私は他の誰とも変わらない、どこにでもいる普通のお姉ちゃんなのに。私の妹は音が聞こえない、それだけなのに。
自分と同じ境遇の友人と出会ったのは昨年の夏。手話を使うと感じる冷ややかな視線。「妹のこと、しんどくない? 自分を大切にね」分かったような顔でかけられる言葉。みんなから見える私は「妹のお姉ちゃん」でしかないこと。本当の私は誰にも知られず、ひとりぼっち。胸の内に抱えた想いは同じだった。
私の妹は普通学校に通いたいという夢を叶えるため東京の大きな病院で人工内耳の手術を受けた。手術直後は「おはよう」の一言すらうまく言えなかった。口の形を何度も真似しても、言えない。夜、泣きながら悔しがる妹を何度も見た。それでも妹は毎朝「おはよう」と笑って言い続けた。そんな妹が初めて「お姉ちゃん」と言ってくれたときは家族みんなで泣いて喜んだ。今、妹は普通学校に通い、障がいを隠さず否定せず、自身の世界をまっすぐ歩んでいる。そして、そんな妹の努力を一番近くで見て知っているのは私だ。
私はそんな妹と一緒に、けれど、私だけの世界を歩んでいる。耳の聞こえにくい子どもたちのリトミックでのボランティア、最近では私の大好きな演劇を通じ、難聴の子どもたちとの交流会を開くことも始めた。劇は手話が第一言語だが、健聴者の観客も多い。誰もが引き込まれる理由はただ一つ、子どもたちが真剣に自分の役に向き合って心から楽しむ姿だ。言葉を超えて心で伝え、手を取り合って一つのものを作り上げる、そんな子どもたちを見て、哀れみの目を向ける者はいない。キラキラした笑顔は希望そのもの。どんな有名な劇場よりも素晴らしい舞台、未来の光がそこにはあると私は誇らしく思う。
昨年の秋、アメリカからの留学生をホストファミリーとして受け入れた時のことだ。彼は自国で学んだ手話を使って私の妹に一生懸命話しかけた。私も妹も日本手話しか分からない。でも不思議と彼の言いたいことが分かった。そこには言語の壁もハンディの壁も超えた彼の姿があった。英語では、障がい者をdisabled peopleではなくpeople with disabilities ―「障がいと共に生きる人」という言い方をすることが多いそうだ。障がいという属性に先に目を向けるのではなく、その人自身にまず目を向ける。きっと私は「きょうだい児」として括られている自分を感じていたのだ。だからこそ、この、人に焦点を当てて区別しない捉え方に、私の中の何かがふっと軽くなった気がした。
今、世界を見渡すと様々な差別が存在する。「自分とは違う」「可哀想」―そんな何気ない区別や先入観が、差別や生きづらさに繋がることがある。一億二千万人の日本だけでも、三人に一人が障がい・高齢・病気など何かしらの『生きづらさ』を抱えているとも言われている。世界中を見渡せば、ひとりひとりに違いがあるのは当たり前、それが普通だ。だからこそ、違いを理由に壁をつくるのではなく、正しく理解しようと互いに手を伸ばし合う社会であるべきだ。
私はSODA。でもそれは「難聴の誰かのきょうだい」だけを意味する言葉ではない。それは、大切な妹と歩んできた証であり、私という人間の確かな軌跡、バックグラウンドなのだ。妹は私に世界の広さと優しさを教えてくれた。その世界の中で私は、私にしかできないことを探し続けている。妹が初めて「お姉ちゃん」と呼んでくれた日、私は姉としての強さをもらった。二人で涙を流すほど笑った日もけんかした日も私の力になっている。それこそが私の原点なのだ。
日本にいるきょうだい児はおよそ666万人。決して少なくない。障がいのある方々が声を上げた時のスローガン、Nothing About Us Without Us.「私たちのことを私たち抜きで決めないで」。これはこの世界に生きるすべての人々に通ずる言葉だ。私たちの小さな理解の積み重ねこそが、見えない壁を壊しつながりを生み出していく。
だから私は今日も伝え続ける。「お姉ちゃん」と呼ばれた日から始まった私の歩みを。SODAとして、姉として、そして前橋真子として。この声が、あなたの心に届くとそう信じて。
リンク先は高校生新聞ONLINEというサイトの記事になります。