宿谷辰夫: 全難聴理事長 宇田川芳江: 全難聴副理事長兼事務局長
2026年1月24日 7:00 
写真はイメージです Photo:PIXTA
小学生の頃にメニエールを発症し、突然「聞こえない側」の世界に足を踏み入れた著者。友人の輪に入れず思い詰めていたが、同じ難聴者との出会いが価値観を変えていく。社会に出てからも失敗や誤解は続くが、それでも一つひとつ向き合いながら、彼女は自分の居場所を組織の中に築いていく。※本稿は、全難聴理事長の宿谷辰夫編、全難聴副理事長兼事務局長の宇田川芳江編『難聴を生きる 音から隔てられて』(岩波書店)のうち、当事者の内悧氏による執筆パートを編集したものです。
「難聴の自分でもいい」と
思えるようになった出会い
小学校高学年の頃にメニエールを発症し難聴者となった私は、失意の底から徐々に立ち直り、忙しくも充実した日々を送っている。仕事は県職員。今年度で27年目になる。劇的に「気持ちが楽になった」と感じるのは、障害者差別解消法等の施行後のことだ。以前は「特別扱い(はできない)」と言われたことも、合理的配慮の要請として耳を傾けてもらえる。
難聴者になる前の私は明るく活発で、自分の意見をはっきり言える子どもだった。それがどうだろう。難聴者になってからは、友人たちの様子を一歩引いて見ていることしかできなくなってしまった。周りに補聴器をつけている者などいない。その場に相応しくない発言をして笑われることを極度に恐れた。
「暗くなったねえ」と以前の私を知る友だちに言われ、傷ついた。いつだって一生懸命耳をすましていて、おしゃべりに参加したかったのだが、あいまいな聞こえでは口をはさむことができなかっただけなのだ。「聞こえにくい自分は本当の自分ではない」という思いで過ごしていた。
私が難聴を受容したのは高校2年生の時だった。聞こえにくい人たちが私の他にもいて、その人たちと交流をもつなどということは、自分では全く思い至らなかったのだが、友だちと馴染めず思い悩む私を見かねて、母がろう者福祉協会を訪ね、同級生のAちゃんを紹介してもらってきた。難聴協会なるものがあると知ったのもその時だった。
Aちゃんと出会って私は難聴というものを初めて「客観的に」知ることができた。視線を合わせてから話し始めること。視覚的ヒントを示しながら話すとスムーズなこと。Aちゃんともっと深い話がしたくて、一緒に手話講習会に通った。身体障害者手帳を申請したのもこの頃だった。やっと「難聴の自分でもいいじゃないか」と思うことができた。
しかし、将来像が全く描けないまま大学生になっていた。友だちとの会話もままならないのに、社会に出て仕事ができるとはとても思えなかった。やがて難聴協会に入会し、大人の難聴者との交流が始まった。いろいろな仕事につき、家庭を持ち、子育てをしている会員たち。自分にもそんな未来があるのかもしれないと、ぼんやりとした未来が見えてきた。
リサーチ不足のまま
社会人生活がスタート
Aちゃんとの出会いで難聴学級というものを知った。私は、地元の大学の教育学部に在籍していたが、難聴学級の担任だけをずっと続けることは難しいようだった。「通常学級の担任が自分に務まるだろうか」と4年生になっても迷いがあった。ちょうどその年、県職員の身体障害者枠の採用試験が始まった。
「事務なら難聴の自分にもできるのではないか」と思い受けてみた。初年度の採用は4名、他の3人は肢体不自由で、聴覚障害者は私だけだった。発音に全く問題のない私は、端から見ると障害が軽いと見えたことであろう。
あまりにリサーチ不足のまま社会人をスタートしてしまったため、すぐに壁にぶつかった。最初は先輩の手伝いから始まるのだろうと思っていたが、4月当初から自分の担当業務がありまず驚いた。
自分の業務に関する情報は、自分で獲得していかなければならない。入庁してほどなく、担当業務に関する会議に課を代表して参加するように言われた時には「会議では聞き取れないのにな」と思ったものの、上司に相談することなくひとりで出席してしまい「案の定」役目を果たすことができなかった。採用試験の際、聞き取れない場面は概ね伝えていたため、上司は知ったうえで参加させるのだと思った。
しかし、採用を担当する部署と配属先とでは情報は共有されていなかった。「これは困った新人が来たぞ」と上司や同僚たちは思ったことだろう。その会議の失敗の後、すぐに人事課が面談の場を設けてくれ、改めてどういう場面で困り、どういう配慮が必要なのかと聞いてくれた。私自身、聞き取れない場面は伝えることができるものの、ではどんなことに気をつけなければならないのか、全くわかっていなかった。その時には会議や研修で利用できる、県独自の要約筆記者等の派遣制度を作ってもらった。
ある時は上司が「君はあまり聞こえていないだろ?たとえば『丸を作りなさい」と言っているのに、楕円のような、似ているけれども違うものを作ってくる。気づいているかい?」と言った。「でもそれが私の障害特性なんです!」と大きな声を出しそうになったが、ぐっと堪えた。理解のない、いじわるな上司だとその時は思った。しかし、時間をかけてよく考えてみると「組織の中で貢献していくためには、それではだめということなんだ」と思い至った。
組織の中で戦える「武器」
社会福祉士の資格を取得
難聴者となって十数年、あいまいな聞こえでその場をやり過ごす「くせ」がついてしまっていた。多くの人は聴覚障害者に対し「聞こえていないだろう?」と面と向かって言うことはせず、ただ陰口をたたくだろう。しかし、その上司は私にまっすぐ伝えてくれた。それからは自分の聞こえが正しいか、自分の言葉で復唱し、丁寧に確認することを心掛けるようにした。上司に連れられて、補聴器店を訪れ、アナログ補聴器からデジタル補聴器に変えた。さらに右耳だけ使っていた補聴器も、両耳装用に変えた。
公務員は数年おきに異動があり、仕事の内容もがらりと変わる。一番苦労したのは4ヶ所目。クレーム対応も多く、同僚たちが皆ぴりぴりしている職場だった。聞き返しが多いせいか、窓口対応から私だけが外されていた。悔しかった。もっと県という組織の中で戦える「武器(知識)」を身に付けなければと思い、育児休業の期間を利用して社会福祉士の資格を取得した。
この資格を取得できたことは自信につながったし、自分を見つめなおすきっかけとなった。改めて周りを眺めてみると、意外と「生きにくさ」を抱えている職員はたくさんおり、障害はあるものの組織に貢献したいと真面目に取り組む自分を肯定的にとらえることができるようになった。
失敗しては修正を重ね、今、職場で音声認識アプリ、電話リレーサービス、チャットシステムを駆使して、あまり障害を意識することなく仕事ができている。毎年「ちょっと難しいな」と感じる担当業務があり、それを無事終えることができた時にはすがすがしい達成感を感じる。他の職員と比べるのでなく、昨年の自分より成長することを目標としている。
自分の過去を振り返り、残念だったなと思うことは、「自分がしたい仕事」を考える余裕もなく社会に入ってしまったことだ。もっと早く難聴の友人を持ち、大人の難聴者と出会い、夢を膨らませることができていたなら、たくさんの選択肢があっただろうにと思う。これから社会に入る若い難聴者たちも、きっと不安な気持ちを抱えていることだろう。「心配しなくていいよ。道は拓けていくよ」ということを伝えてあげたい。(2級・公務員・40代・熊本県)

『難聴を生きる 音から隔てられて』(宿谷辰夫、宇田川芳江、岩波書店)
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