齋田 多恵
2025.10.20
お笑いタレントの大屋あゆみさん(41)は、両親が聴覚に障がいがあります。自身は耳が聞こえて手話もできますが、手話をする姿を人にからかわれ、恥ずかしさを覚えたこともあったそうです。(全3回中の2回)
手話をするのをジロジロ見られるのがイヤになって
── ろう者・難聴者の親を持ち、自分自身は耳が聞こえる子どものことを「コーダ」と言います。沖縄でお笑いタレントとして活動する大屋さんのご両親は、ふたりとも耳が聞こえないため、大屋さんはコーダにあたるそうですね。幼少期から手話でご両親の通訳をしていたとうかがいました。当時はどんな様子でしたか?
大屋さん:まず最初に、手話言語は音声言語の日本語とは文法などが異なり、聴覚に障がいのある人の「言語」です(2011年公布の「改正障害者基本法」でも手話は言語であると明記されている)。音声言語の日本語とは文法が異なるので、勉強しないと習得できないものです。最近の若いろう者は、学校や育ってきた環境でさまざまですが、音声言語の日本語を理解できる人が多いように感じます。以前は耳が聞こえない人が音声言語の日本語を理解する機会が乏しかったそうです。私の両親も日本語は得意ではないんです。
そのため日常生活では、健聴者の話を両親に通訳する役割を自然と担うことになりました。3歳ころから、病院の受付の人の「ここで診察券を出してね」といった簡単な声かけに対しても、父に手話で説明したのを覚えています。たとえて言うなら、海外に行って、私だけが現地の外国語を話せる感じで、家族がコミュニケーションに困っているから手伝う感覚でした。家のなかでは手話で会話をしていたため、手話を幼いうちから学び、いっぽうで、話し言葉の日本語は近くに住む祖父母や親せきと接していくなかで覚えていきました。

仲間と立ち上げた劇団・アラマンダの舞台は聴覚に障がいがあっても手話でお笑いを楽しめる
── ご両親のサポートをする状況について、大屋さん自身はどう感じていましたか?
大屋さん:小さいころはそれが当たり前で、ごくふつうのことだったので、なんとも思っていませんでした。いろんな人から「ご両親の通訳をしていて、えらいね」とほめてもらえるのはうれしかったです。でも、小学校3、4年生くらいになってくると、人の目がだんだん気になるようになってきました。両親と手話で会話をしていると、ジロジロ見られることが多く、それが恥ずかしくもあって…。
学校の授業参観などの行事で私たち親子の手話を見たほかの子たちがからかってきたり、ふざけてマネしてきたりすることがありました。そのため、人前で手話をして話すのがだんだんイヤになってしまいました。
いまでも後悔している出来事
── 多感な時期に周囲からあれこれと言われるのは、気になってしまうと思います。
大屋さん:いまでも後悔しているんですが、両親に「(参観などで)学校に来ても絶対に手話で話しかけないで」と言ったことがあります。両親は「わかった」と。以来、私は学校で両親とは絶対話しませんでした。でも、ふたりは学校行事は必ず見に来てくれたんです。当時のことを思い返すと、すごく申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになります。
──「手話がイヤ」というネガティブな思いは、どのように乗り越えたのでしょうか?
大屋さん:中学2年生のときに母と一緒に東京へ旅行に行ったときのことです。話すことが禁止で、手話か筆談、ジェスチャーでコミュニケーションをとる喫茶店に入ってみたんです。手話を楽しむ喫茶店なのですが、その場所を訪れたのが大きな転機になりました。入口には「店内では声を出してはいけません」と、書いてありました。今は「手話カフェ」というジャンルが確立され、いろんなところにお店があるのですが、その先駆けみたいなところだと思います。
店内に入ってみたら、とてもひっそりとしていて静か。でも、みんな手話や筆談、ジェスチャーで、さかんにコミュニケーションをとっていたんです。その様子が、すごく心地よくて。私は日常生活では音声言語である日本語の会話がほとんど。手話を使うのは家族や一部の限られた人とだけです。でも話すことができない状況では、こんなに周囲へ気兼ねすることなく、のびのびと手話でおしゃべりできるんだと感じました。もし私が音声言語の日本語しか話せなかったら、この静かで豊かな時間を知ることがありませんでした。
──「手話のおかげで世界が広がった」と、前向きにとらえられるようになったんですね。
大屋さん:私は手話でも会話ができるおかげで、ろう者の立場や思いもわかります。もちろん、耳が聞こえて音声言語の日本語も話せるので健聴者の考えもわかります。両方の世界を理解しているからこそ、どちらにも所属できないというか…。「私はどの立場で生きていけばいいんだろう」という気持ちがありました。
今でこそ両親がろう者で、本人が聞こえる子どものことを「コーダ」と呼ばれることが、少しずつ知られるようになってきましたが、私が子どものころはコーダという言葉や周囲の理解もあまりなかったように感じます。だから、「自分は何者なのか」と葛藤していたように思います。
── 両方の立場に立っているからこそ、アイデンティティに悩んだのだと思います。
大屋さん:子どものころから、ろう者と健聴者のコミュニケーションをスムーズにするにはどうしたらいいんだろうと、ばく然と考えることはありました。沖縄はお盆やお正月などでよく親戚が集まります。子どものころからよく参加していたんですが、親戚も両親のきょうだいも含めてみんな手話ができません。だから、両親はずっと、身内ときちんとしたコミュニケーションがとれていなかったような気がします。
みんなが集まっている場所で、両親は会話についていけないわけです。場が盛り上がっているとき、私に「今どうしてみんなは笑っているの?」と聞いてきます。「こういうことがあったんだよ」と説明すると、両親も理解できるのですが、そのときにはもう別の話題にうつっていて。いつもワンテンポ遅れてしまう。
でも、周囲はそれを気にしませんでした。みんないい人たちで悪気はまったくないけれど、両親が話に入ってこないのは当たり前だと感じているんですね。私は子ども心に「どうして置いてきぼりになっちゃうんだろう。両親がさみしいのもわかるし、みんなが自分のペースで話をするのも理解できる」と、モヤモヤとしていました。
そのモヤモヤをどう解消したらいいのか悩んでいましたが、成長していくなかで、「手話も日本語も話せるのは私の強み。将来はそれを活かしたい」と思うようになって。いずれは健聴者とろう者の橋渡しをしたいと、ひとつの夢ができました。

テレビ番組の彼氏募集に応募した夫とつき合い始めた当初
── そういった思いがあって、ろう者も健聴者も楽しめるよう、手話でオリジナル喜劇を演じるコメディー集団「劇団アラマンダ」を2018年に立ち上げたのでしょうか?
大屋さん:はい。聞こえる人も聞こえない人も、みんなが楽しめる舞台をめざしています。具体的には演者が手話を交えながら、セリフを声で発していきます。それによって、聞こえる、聞こえない関係なく舞台を楽しめる。お笑い芸人・タレントとして活動し始めて試行錯誤しながら、ようやくたどりついた形です。実際、舞台を観に来てくれた方が同じように笑って楽しんでくれるので、本当にうれしいです。これからもずっと活動を続けていきたいです。
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手話でオリジナル喜劇を演じる劇団を立ち上げた大屋さんですが、じつは最初から芸人になろうと思ったわけではなかったそうです。しかし、ひょんなことからお笑いの世界へ。今後の目標は手話とお笑いの融合をさらにめざすこと。その先でいつか、テレビや舞台で当たり前に手話がついている世界になったらいいなと願いながら、今日も公演に全力を注いでいます。
取材・文/齋田多恵 写真提供/大屋あゆみ
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