2歳まで話せなかった。障害があったわけではない。音声のない環境で育ったからだ。武井誠(47)の両親はろう者で、母は米国人。初めて覚えた言葉は手話だ。
武井が話せないことに気付いたのは、母が通う教会の関係者だった。「それが自分の使命だというように、日本語の特訓をしてくれた。それがなかったら、今も話せていなかったかもしれない」
「CODA(コーダ)」。聞こえない親から生まれた聞こえる子どもをそう呼ぶ。武井は大人になってから、自分もコーダなのだと知った。

■大人の役目
小1になるまで、家にあるテレビから音が出ることを知らなかった。両親は音を消して見ていたからだ。友達の家に同じ型のテレビがあり、驚いた。帰宅し、父親の「野球中継を映す箱」のボリュームを上げると音が聞こえた。
「うちは普通じゃない」。子ども心に分かった。「音を出していろんな番組やアニメを見たかった」。そのとき押し寄せた感情を「怒りとも違う、むなしさや悲しさに近い感じ」と表現する。
常に親に頼られた。5歳で自分の学資保険契約の通訳をしていた。遊んでいてもすぐに呼び戻される。家庭訪問の時も先生と親の間に入り「お子さんは落ち着きがないですね」と自分で通訳した。家の経済状態も分かった。「子どもなのに大人の役目を求められた」
子どもの頃は「えらいね」と褒められると悪い気はしない。でも家族で外食する時、手話で会話しているのを見られるのが嫌だった。
やがて親を見下す気持ちが生まれた。「俺がいなければ何もできないじゃないか。言う通りにすればいい」。親にそんな言葉をぶつけたこともある。父とは取っ組み合いのけんかもした。
一家が住む東京でも通訳派遣が行き届かない時代。「なぜ自分だけが…」。しかし、親がいなければ生活できない。いつの間にか、手話が嫌いになっていた。

■バンド演奏
転機は大学で出会った手話サークルだ。勧誘され、手話を披露すると、どよめきが起きた。入会してみると、手話への気持ちが変わり始めた。
聴覚障害がある友人ができたことも大きい。家に彼女を呼んだ時、母に突然部屋のドアを開けられて怒ったことを話すと「聞こえないから見るしかないよ」。父が食事中に音を立てるのが嫌だったが「そもそも聞こえないから関係ない」。
相手を指さす、凝視する…。手話に必要な動作が、周囲から誤解されることもあった。親以外のろう者と関わり、ろうの文化を客観的に見ることができるようになった。
そんな時、大学祭で披露した手話のバンド演奏が評判になった。最初に演奏した3年の時のろう者の反応はいまひとつ。悔しくて4年の時は必死になった。幾つかのジャンルの音楽を組み合わせ、視覚でも伝えられるようダンスも取り入れ、ビートを体で感じる風船も用意。すると今度の感想は「面白かったよ」。
「やった!」。自分の立ち位置が分かった気がした。「聞こえない人の対極にある音楽を届ける。その真ん中に立つ」。やるべき道が見えた。
2000年、サークルの仲間と手話バンド「こころおと」を結成。本格的な活動に入った。ろう者もコーダもいる。武井は手話ボーカル担当だ。

■立派な言語
同じく手話ボーカルでろう者のクニーこと西槙久仁子にとって、武井は「人生を変えてくれた人」。音はほとんど聞こえないが、子どもの頃から音楽に興味があった。大学の時に武井に会い、迷わずバンドに参加した。
武井が親の通訳で予定変更を強いられる場面に、バンドの仲間として何度も居合わせた。息子と娘は聴者。文字起こしアプリや筆談を使い「できるだけ子どもには頼らない」。武井を見てそう思うようになった。
武井はバンド活動以外にも、大学で手話を教え、手話演劇通訳など活動の幅を広げている。東京パラリンピックでは、開会式と閉会式の手話通訳統括も務めた。
「手話は豊かで深いコミュニケーションができる立派な言語なのに、長い間認められてこなかった」。学校で手話が禁じられた期間も長かった。
ろう者への差別が強かった時代、多くのハンディをはね返し子どもを育てた両親を今は尊敬できる。2023年に亡くなった父は知人に、活躍する息子の話をしていたと聞いた。
コーダに生まれたことを完全に肯定できているわけではない。でも自分にしかない経験がアイデンティティーになり、誇りにつながっている。
一人でも手話を使える人を増やしたい。二つの世界を自分がつなぐという思いだけは揺らぐことはない。

【もっと知るために/手話禁じた歴史も】
ろう者にとって手話は非常に重要なコミュニケーションの手段だが、学校教育では長く手話の使用が禁止されてきた歴史がある。
自らもコーダで金沢大教授の武居渡(52)によると、手話教育が始まったのは明治期。昭和に入り、口の形をまねたりしながら発話する「口話法」が導入されると、授業で手話を使うことは禁じられるようになった。「聞こえる人と同じように教育する」という方針に変わったからだ。
一方で、家庭内や友人同士で手話は使われ続け、1990年代以降は、再び教育現場でも取り入れられ始めた。若い世代は手話に口話をつけて話す人も多い。
近年は聴覚を補完できる人工内耳の手術を受け、普通校で学び、手話を習わない子どもも増えているという。
(敬称略/文は共同通信編集委員・尾原佐和子、写真は共同通信編集委員・今里彰利/年齢や肩書は2024年3月30日に新聞用に出稿した当時のものです)
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